第102話 違いが分かる男
重厚な木製の扉を開けると、フィニスの女王は窓の外を見ていた。
夜の闇に沈む王都を見下ろす細い背中。
豪奢な燭台の灯りが、彼女のうなじにかかる金色の髪をゆらゆらと照らしている。
執務机の上には、大陸の勢力図を描いた羊皮紙の地図も、前線からの急報を示す書類も、手つかずのまま広げられていた。
待っていたのだ、とボクにはすぐに分かった。
戦果でも、建前でもない。
次の盤面を動かすための、確かな『情報』。
それだけを。
ボクは部屋の中ほどで音もなく足を止め、和服の襟をすっと正した。
そして、静かに片膝をつく。
「楽にしなさい」
窓から振り返ったルシア女王の翠の瞳。
それは、忠臣の旅の無事を喜んでいるわけでも、久しぶりの再会を懐かしんでいるわけでもなかった。
ただ、純粋に『欲しいものがある』という、酷薄なまでの支配者の顔をしていた。
「話を聞かせて」
ボクは立ち上がり、淡々と報告を始めた。
帝国の選帝侯たちが不気味な沈黙を保ったまま動いていること。
栞たちのパーティが、帝国南部のアルン砦に軟禁されていること。
そして。
——エインハラ宮殿の巨大な闘技場が、規格外の力によって半壊させられた騒動のこと。
ボクは一切の感情を交えず、事実だけを順番に並べた。
女王は、完璧な彫像のように黙って聞いていた。
あの強欲な俗物、ロベール・ド・マルシエの名前が出た時も、表情の筋肉一つ動かなかった。
動かさなかった、と言う方が正確かもしれない。
報告が終わりかけた時。
ボクは意図的に声のトーンを落として付け加えた。
「——ヴァルシア王国王位継承者であるルイス殿下が、帝国の『聖女』マリア様の傍いるとか」
その瞬間、机の上のペーパーナイフに触れようとしていた女王の白い手が、ピタリと一瞬だけ止まった。
「……教皇猊下は、その事実をご存知かしら」
「報告は、既に届いているはずです」
ボクはそれ以上は言わなかった。
女王も、それ以上は聞かなかった。
二国間の政治的なパワーバランスの揺らぎは、互いの頭の中で一瞬にして処理された。
しばらく、重い沈黙もあった。
「一つ、ボクからお聞きしてもいいですか」
ボクが言うと、女王は言葉を発さず、目だけで続きを促した。
「彼です。速水駆」
一拍置いた。
彼女の脳を整理させるためだ。
「ご存知だったのでは?」
陛下は答えない。
でも、ボクは続ける。
「何のスキルも持たないただの無能ではないと、薄々知っていたはずなのに。なぜ、彼を追放することを止めなかったのですか?」
召喚しておいて、気付かない。
それは間違いなく、嘘だ。
「……追放したのは、あなたがた勇者のパーティでしょう?」
淀みない即答だった。
ボクを責めているわけではない。
ただの事実として言っている。
だから、ボクも核心を突くように続けた。
「読み解く力を持つ。栞という存在さえいれば、彼らには関係なかった?」
「ええ」
女王は、再び窓の外の暗闇へ視線を戻した。
「帝国は、それで満足よ。そして私も、ね」
「——なるほど。ボクがいれば、ドミナスの教典なんて要らない、と」
返事はなかった。
女王がゆっくりとこちらを見た。
氷のように冷たい翠の瞳が、ボクをまっすぐに捉える。
肯定でも否定でもない。
だが、その沈黙こそが絶対的な答えだった。
ボクは立ち上がりながら、ふと思ったことを口にした。
「……運がいい」
「何が?」
「あの追放された速水駆が、予想外に帝国をド派手に困らせてくれているので」
少し、意地悪な間を置いた。
「まぁ、ボクたちには全く関係ない話ですけどね」
女王は何も言わなかった。
ボクも何も言わなかった。
お互いに、それで十分だった。
それからボクは、本題に入った。
今は、ヴァルシア王国とドミナス帝国の『聖戦』を大義名分として前面に出す局面だ。
速水駆という個人の指名手配書をこれ以上バラ撒くのは、その美しい構図を乱すノイズになる。
街の裏社会では既に、この追放劇の裏で糸を引いた男の不穏な噂が広まり始めている。
ボクの耳にも入っているくらいだ。
これ以上、手配を続けておく合理的な理由がない。
女王は、少し考えるように美しい睫毛を伏せた。それから、こちらを見た。
「……アナタが、そういうならそうしましょう。手配は取り下げます」
女王が小さく鈴を鳴らすと、控えていた宰相バルドが呼ばれた。
底知れない老宰相は音もなく静かに部屋に入ってきて、女王の前で深く頭を下げた。
「辺境の村カルネにいる、セルノというしがない修道士。……彼を、異例ではありますが正式な司祭として取り立てます」
バルドがしわがれた声でそう言った時、ボクは思わず彼の横顔を見た。
「そうすれば、あの速水駆も恩義を感じ、喜んで陛下に膝をつくことでしょう。彼の手綱を握るには、これが最善かと」
「……流石ですね、宰相殿」
ボクが素直に感嘆を漏らすと、バルドはただ静かに微笑んだ。
その隙のない老獪な笑みを確認して視線を戻すと、女王は既に次の書類に目を落とし、羽ペンを走らせていた。
用は済んだ。バルドが一礼して下がる。
ボクも踵を返し、重厚な扉が閉まりかけた時。
背後から、女王の透き通るような声がした。
「それから、奏」
「はい」
「……レベルを上げる方法は、分かりましたか?」
ボクは、扉の取っ手に手をかけたまま、口元だけで少し笑った。
「勿論。——これも全て、陛下のお陰……ですね」
返事はなかった。
豪華な執務室の中。
燭台の炎だけが、欲望を映し出すように静かに揺れていた。




