第94話 懐かしい風景
部屋の隅に、マジッククローゼットが置いてあった。
昨夜、宿のスタッフに使い方を教わった。
扉を開けると、自分の服が綺麗に畳まれて収まっていた。
漆黒のパーカー。灰色のチノパン。
疼く左手から放たれる魔力。
昨日も相変わらず、左袖口は爆ぜたようにボロボロに焼け焦げていた。
マジッククローゼットはその部位も綺麗に修復してくれる。
村田はパーカーを手に取った。
魔力痕が浮かぶ左腕を袖に通した。
袖口から素肌が覗いた。紫と黒が混ざった痕が、朝の光の中で静かに脈打っている。
これでいい、と村田は思った。これが僕だ。
子供の頃から、魔法使いになりたかった。
ファンタジーの本を読み漁り、呪文の体系を自分でノートに書き起こし、それをクラスメイトに笑われても捨てなかった。
中学の頃は速水に見せた。あいつは笑わなかった。
「すげえな」と言って、真剣な顔でページをめくった。
あの頃の話だ。
「僕たちは確実に進んでいる」
昨日の戦闘の疲れより、興奮の方が勝っていた。
シュテナを落とした。帝国の土を踏んだ。
水瀬舞が言ってくれた——「雄くん、すごい」と。
あの声が、まだ耳の奥に残っている。
これが僕の場所だ。ようやく手に入れた場所だ。
「僕は間違いなく、夢に近づいている」
だから、速水のことは考えない方がいい。
あいつが言ったことは知っている。
中学から知り合いだろ、ちゃんと召喚された、帝国のスパイじゃない——そう言っていた。
でも、もし本当に召喚されたのなら、十二人全員が失敗したことになる。
それは正義の無視だ。水瀬舞のためだけじゃない、みんなのためだ。
だから、僕は間違っていない。
間違っていない。
でも、最近は眠れない。
四人が攫われた。
仲間たちは速水を頼った。
逃げるだけのスキルを持つ男を。あの「逃げるが吉」を。
僕に優しかった水瀬舞でさえ言った——駆ならやってくれる、と。
その言葉が、どうしても頭から離れない。
なぜ速水なんだ。
帝国に乗り込んで、あの四人を取り戻すなら、僕の魔法の方がずっと確実だった。
僕なら戦える。敵を薙ぎ払える。なのに誰も言わなかった。
村田くんならやってくれる、とは。
南で何か起きているらしい。帝国内部が混乱しているとか。
でも、逃げることしかできないあいつに、そんな状況を切り抜けられるわけがない。
中学の頃から、この左手は疼いていた。
ずっと、ずっとだ。誰よりも早くから、この力と生きてきた。それなのに。
村田は窓の外を見た。
夜明けの光が、帝国の空をゆっくりと染めていく。きれいだと思った。そして、その美しさが少し腹立たしかった。
僕はこの世界で輝かしい人生を送る。
間違いなく。
逃げるスキル。生きてるだろうとは思っていた。あいつは逃げることだけは得意だから。
でも、なんだよ、あれ。
異世界に召喚されて、カッコいい仲間を作って、可愛い女の子と肩を並べて、小さな村を解放して回って——立派に異世界を楽しんでいるじゃないか。
誰も頼んでいない。僕たちの手が届かない場所を、あいつが勝手に動き回っているだけだ。それのどこが貢献なんだ。邪魔しかしていないじゃないか。
それに、あの喋り方。
なんだよ、あれ。もう飽きてんだろ、そういうの。中学の頃から変わってないのか。
違う。
僕は大魔法使いだ。ウィザードだ。子供の頃から夢見てきた、本物の魔法使いだ。
異世界チートは——最初から、僕のものだったんだ。
速水じゃない。僕だ。
選ばれるべきだったのは、ずっと夢を持ち続けてきた僕の方だったんだ。
それだけは、誰にも譲らない。
だから眠れなくても構わない。
夜が明けた。今日も進む。
◇
食堂に一番乗りのつもりで扉を開けた。
他の客がいた。
……あれ。
村田は入り口で少し止まった。
高級宿屋名だけあって、広い食堂だった。
天井が高く、窓から朝の光が差し込んでいる。
清潔なテーブルクロスが掛けられた長いテーブルに、料理が並んでいる。
スクランブルエッグ。焼いたパン。
丸いオレンジ色の果物のジュース。湯気の立つスープ。
どこかで見た並びだ、と村田は思った。
どこで?
コミケ近くのホテル、僕は夢を……
考えかけて、やめた。
奥のテーブルに人が座っていた。
本か何かを広げて読んでいる男がいた。
グレーのパーカーにジーンズ姿で、滑らかな黒髪を横に流している。
よく見ると口元が微かに上がっている。
笑っているのか考えているのか分からない顔だ。
窓際には別の男がいた。
ダークグリーンのアウトドアジャケットを着て、外を眺めている。
いや、外の鳥を見ている。いや——鳥と何か話しているような気がする。気のせいか。
壁際には、銀色の鎧を着た男が真剣な顔で座っていた。
鎧でビュッフェ。コスプレの準備か何かだろうか。いや、朝から?
スタッフだろうか、黒い女物のスーツを着た女性が窓の近くに立っていた。長身で、灰銀の髪を束ねている。笑わない顔をしている。
そして。
厨房の方から、料理を運んでくる女の子がいた。
花柄のワンピース。赤みがかった茶髪。小柄で細い。
あ、と村田は思った。
昨日、広場に差し入れに来た子だ。可愛い子だった。確か宿の関係者だと言っていた。
……そういえば。
駆の近くにいた、あの子に少し似ている。
シオンとか言ったか。いや、それは関係ない。全然関係ない。
村田は首を振った。
僕はウィザードだ。中学の頃からずっと夢見ていた、魔法使いだ。
左腕の魔力痕がその証拠だ。速水駆とは違う。逃げるだけの男とは、根本的に違う。
トレーを取って、料理を選び始めた。
スクランブルエッグをよそった。焼いたパンを取った。オレンジジュースを注いだ。
……。
村田は手を止めた。
トレーを見た。
スクランブルエッグ。焼いたパン。オレンジジュース。
ホテルの朝食だ。どこで見た? 見た。絶対に見た。家族旅行か、修学旅行か、どこかの——。
卓の上に小さな紙が折り畳んで置いてあった。広げた。
マジッククローゼットのご案内、と書いてあった。
ご利用はフロントまで、と書いてあった。
村田はゆっくりと顔を上げた。
食堂を見渡した。
朝の光。並んだ料理。新聞を読む男。鳥と話す男。鎧の男。黒スーツの女。花柄のワンピースの女の子。
……あれ。
ここ、異世界だよな。
ドミナス帝国。異邦人が作った国。だから——。
「おはようございます」
花柄のワンピースの女の子
——ブリアが、村田の隣に立っていた。
トレーに温かいスープを足してくれた。
「泊ってくださって、ありがとうございます! ぜひ、食べてください」
にこりと笑った。笑うと別人のように柔らかくなる顔だった。
村田は「あ、ありがとう」と言った。
ビュッフェ形式でトレイに色々乗せた。
そして、椅子を引いて座った。
スープを一口飲んだ。
暖かくて、色んな出汁が効いてて、美味しかった。
……やっぱり、前の世界?
どこからが夢で、どこからが──
パーカー姿の男が新聞を折った。
「また値上がりか」
独り言のような声だった。目は笑っていない。
「職人ギルドの独占状態をどうにかしないとな。面白いですね、技術を囲い込むことで価値を維持しようとする構造は。合理的ではあるんですが」
鎧姿の男がスープを一口飲んだ。一拍遅れて顔を上げた。
「……そうですね。ただ、あのクローゼットは確かに便利だ」
「便利どころじゃないですよ」
男が続けた。
「入れるだけで綺麗になる。傷も消える。普通の職人には真似できない。異邦人のスキルですからね」
勇者のコスプレ男が鎧の袖を撫でた。
純粋に誇らしそうな顔だった。
「この勇者装備の金属疲労でさえ、直るんですから。初めて使った時は驚きました。……なるほど、では——」
村田は黙って聞いていた。スクランブルエッグを口に運んだ。
その時、食堂の扉が開いた。
舞が入ってきた。続いて美咲。玲が後ろに続いた。
剛が入ってきて、料理を見て、少し表情が和らいだ。
……良かった。ここはちゃんと異世界だ
日向が最後に入ってきて、ブリアに「おはようございます」と言われて「おはようございます」と返した。
全員がトレーを持って料理を選び始めた。
奇妙な集団の会話は続いていた。
「初めて見た時にも思いましたよ」
と知らない客が言った。
「向こうにはなかった。だから最初は驚いた」
「私もです」
他の客が頷いた。
「この技術は帝国でしか見られないと思っていたので」
「……そうですね、確かに。異邦人が作った国ですから」
「異邦人が快適に過ごせるように、全部が設計されている。面白いですね」
玲がトレーを持ったまま、固まった。
剛の、トレイに料理を乗せる手が止まった。
美咲が静かに口を閉じた。
村田は新聞を読む男を見た。
鎧の男を見た。窓際の男を見た。黒スーツの女を見た。
舞がトレーを持ったまま、ぽつりと言った。
「ウチたちと同じこと言ってる」
玲が低い声で言った。
「静かにしろ。ここは帝国だぞ」
「だって」と舞が続けた。
「速水を追い出したとき、帝国にも同じ技術があるって話が出たよね。マジッククローゼット。異邦人のスキルだって」
「それは、そうですが……」
村田の声が小さくなった。
食堂が静かだった。
知らない客が新聞を置いた。
口元が微かに上がっていた。
「だとしたら、味方だよ!」
舞の声が食堂に響いた。
「み、味方と判明したわけでは——」
「雄くん」と舞が続けた。
「十二人も召喚できたんだよ? あの国が一人でできると思う?」
「そ、それは確かに」
「一緒に聞きに行こ!」
舞がトレーを置いて立ち上がりかけた。
玲が先に立ち上がっていた。
ゆっくりと近づく。客たちは静かな動きだった。
反応もなかった。
そして村田は、舞と彼らのテーブルの間に、自然に立っていた。
剛も気づいていた。
ゆっくりと立ち上がって、玲の隣に並んだ。
二人が壁になった。
誰も喋らず、沈黙が一瞬流れた。
「どうされました?」
背後から声がして、全員が振り返った。
いつの間にか、彼らが立っていた。
男がが笑っていない笑顔で首を傾けていた。
もう一人の男が一拍遅れて「……何かお困りですか」と続けた。
鳥を眺めていた男が窓から視線を戻し、「鳥が騒いでる」と短く呟いた。
黒いスーツの女は何も言わなかった。
ただ、彼女が立っているだけなのに、息が詰まるような静かな圧があった。
ブリアがエプロンの端を握っていた。
舞が明るく聞いた。
「もしかして、異邦人の方ですか?」
男が目を細めた。口元が上がった。
「あれ? 実は私たちも気になっていたんです」
もう一人が一拍遅れて頷いた。
「……その衣装」
窓際の男が村田のパーカーを見た。
「見たことある服だ」と短く言った。
女は何も言わない。ただ見ていた。
ブリアが小さく笑った。笑うと別人のように柔らかくなる顔だった。
場の空気が、奇妙な形で和んでいた。
そんな中で。
「す、ステータスの羊皮紙……を」
日向の声だった。俯いたまま、籠もった声だった。
玲の瞳がギョロリと動き、日向を見た。
全員が、一瞬止まった。
それから、目の前の集団に向き直った。
「そうだ」
低く、小さい声で、玲は知らない客に詰め寄った。
「ステータスの羊皮紙だ。お前たち、異邦人なら持っているんだろうな」




