第八章 既視感
ホールを出るとき、猪飼を出口まで送ったのは、桑原だった。
エレベーターを待つあいだ、二人のあいだに会話はなかった。猪飼は、その沈黙を破るように口を開いた。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
桑原は、わずかに視線をこちらに向けた。それだけで、続きを促す仕草だった。
「なぜ俺なんですか。招待状を送ったのがあなたじゃないとしても、あなたはこの場に俺を案内する役目を任されている。誰かが、あなたに指示を出したはずです」
「わたしは、案内の指示を受けただけです」
「理由は聞かなかったんですか」
「聞く必要がありませんでした」
にべもない返答だった。猪飼はそれ以上食い下がろうとしたが、桑原の横顔に浮かぶ表情の変化のなさに、言葉を飲み込んだ。何を聞いても、この壁は崩れそうにない。
エレベーターの扉が開いた。二人は無言のまま乗り込んだ。
籠が動き出したとき、猪飼はふと、桑原の横顔を見た。
整った顔立ち。感情を押し殺したような、無表情に近い表情。手袋をはめたままの両手。
その組み合わせに、猪飼は不意に、既視感に似た感覚を覚えた。
――どこかで、これに似たものを見たことがある。
記憶を辿ろうとしたが、うまく像を結ばなかった。桑原本人に似た人物に会った覚えはない。だが、この「感情を出さないことで、何かを守っている」ような態度そのものには、確かに覚えがあった。
五年前だ、と猪飼は直感的に思った。
だが、それが具体的に誰の、どんな場面の記憶なのか、この時点の猪飼には辿り着けなかった。まるで、思い出そうとするほど、記憶の輪郭がぼやけていくような感覚だった。
「どうかされましたか」
桑原が、猪飼の視線に気づいて尋ねた。
「いえ」
猪飼は短く答えた。それ以上、この違和感を言葉にすることはできなかった。
エレベーターが一階に着き、扉が開いた。夜の空気が流れ込んでくる。桑原は猪飼を路地の入り口まで見送ると、それ以上は何も言わず、ビルの中へと戻っていった。
猪飼は一人、雑居ビルを見上げた。
何の変哲もない、古い建物だった。中にあれほどの世界が広がっているとは、通りすがりの誰も気づかないだろう。
猪飼は歩き出しながら、桑原に覚えた既視感の正体を、もう一度探ろうとした。だが、その日はついに、答えらしきものにはたどり着けなかった。
ただ、帰りの電車の中で、猪飼はスマートフォンに一つのメモを残した。
桑原。手袋。既視感。五年前の何か。
その短いメモが、後にどれほどの意味を持つことになるか、この夜の猪飼には、まだわからなかった。




