第七章 稲本仁
会場が徐々に閑散としてきた頃、猪飼は稲本に声をかけられた。
「猪飼さん、で間違いありませんね」
名前を呼ばれたことに、猪飼はさほど驚かなかった。ここまで来て、今さら身元を隠されているとは思っていない。
「招待状を送ったのは、あなたですか」
「いいえ。わたしは、この場を運営しているだけの人間です。招待状の差出人については、わたしも把握しておりません」
稲本の口調は、終始変わらなかった。丁寧で、穏やかで、そして何を聞いても核心には触れない。猪飼はこれまで数多くの人間を取材してきたが、これほど感情の起伏を感じさせない相手は珍しかった。
「どういう仕組みなんですか、これは」
「単純です」猪飼を近くのソファへ促しながら、稲本は続けた。「ここでは、秘密が売買されます。ただし、正確に言えば、秘密そのものではありません。参加者が手にするのは――」
「その秘密を使って、誰かの人生を動かす権利」
猪飼が先回りして言うと、稲本は初めて、口の端をわずかに緩めた。
「察しがいい。その通りです」
「値段は誰が決めるんですか」
「市場です。誰にも知られていない小さな秘密は安い。社会的立場を失うほどの秘密は高い。企業を潰せるほどの秘密は、非常に高い」
「国家レベルの秘密は?」
「そもそも、金では買えません」
猪飼はしばらく黙っていた。頭の中で、この仕組みの異様さを整理しようとしていたが、うまく言葉にならなかった。
「あなたは、この仕組みを作った側の人間ですか」
その問いに、稲本は初めて、わずかに間を置いた。
「わたしは、上から指示を受けているだけです」
「上、というのは」
「わたしにもわかりません。指示は、いつも別の形で届く。誰の顔も見たことがない」
猪飼はその答えを、額面通りには受け取らなかった。だが、それ以上追及しても、稲本の表情が動く気配はなかった。
話題を変えることにした。
「先ほど、ある方が――身辺調査記録を落札されていましたが」
「ご覧になっていましたか」
「誰の記録か、教えていただけますか」
「規約でお答えできません」稲本は静かに首を振った。「ただ――」
一拍、間があった。
「一つだけ、覚えておいてください、猪飼さん。この場のルールを、誰よりも深く知っている人間ほど、危ない橋を渡ることになります」
猪飼はその言葉の意味を、その場ではうまく飲み込めなかった。単なる警句のようにも、忠告のようにも聞こえた。あるいは、猪飼自身に向けられた牽制なのかもしれない、とも思った。
「それは、どういう意味ですか」
しかし稲本は、その質問には答えなかった。代わりに、静かに立ち上がった。
「本日はこれで。次回の開催は、また招待状にてお知らせします」
「俺は、まだ何も落札していませんが」
「ご心配なく」稲本は微かに笑ったように見えた。「あなたが本当に欲しいものが出品されるまで、まだ少し時間がかかりますので」
その言葉を最後に、稲本はホールの奥へと戻っていった。猪飼はその後ろ姿を見送りながら、先ほどの警句を、頭の中で何度も反芻していた。
ルールを一番よく知っている人間ほど、危ない橋を渡る。
誰のことを言っているのか。この時点の猪飼には、見当もつかなかった。




