第六章 落札
個別相談の時間になると、ホールの奥にいくつかの小部屋が用意されていることに、猪飼は初めて気づいた。ガラス張りの、防音構造らしい部屋がいくつも並んでいる。参加者たちは、目当ての番号を扱う担当者と、それぞれの部屋に入っていく。
猪飼は特にどの番号にも興味を示さないまま、ホールの端に立ち、その様子を観察することにした。招待状の意図がわからない以上、下手に動くより、まずはこの場の仕組みを理解することが先決だと判断したからだ。
ガラス越しに見える光景は、奇妙なほど静かだった。声は聞こえない。ただ、参加者たちの表情と、手元の資料をめくる仕草だけが見える。誰もが真剣な顔をしていたが、それは商談というより、もっと個人的な――誰かの人生の一部を、じっくりと吟味しているような、そんな表情だった。
その中の一部屋に、猪飼は見覚えのある姿を見つけた。
Lot 42のとき、猪飼の目に留まった、あの恰幅の良い初老の男だった。
男は担当者と向かい合い、一枚の資料に目を通していた。表情は変わらない。ただ、資料をめくる指の動きが、ほかの誰よりもゆっくりだった。まるで、一文字ずつ、確かめるように読んでいるかのようだった。
やがて男は、小さく頷いた。担当者が何かのボタンを操作すると、部屋の外のパネルに、文字が浮かび上がった。
落札
猪飼は近くを通りかかった桑原に、思わず尋ねた。
「今の方は、何を落札したんですか」
桑原は一瞬、ガラス越しの男を見た。
「あの方が落札されたのは――ある人物の身辺調査記録です」
「誰の?」
「それは、落札者にしか開示されません」
素っ気ない返事だった。猪飼はそれ以上追及しなかった。他人の身辺調査記録を、政治家か企業経営者らしき男が金で買う。この場では、それすらもごくありふれた取引の一つに過ぎないのだろう。
猪飼はもう一度、ガラス越しの男に目をやった。
男は資料を丁寧に封筒へしまい、それを内ポケットに入れると、まるで何事もなかったかのように席を立った。その所作の一つ一つに、無駄がなかった。長年、こういう場に慣れている人間の動きだった。
――誰の身辺を調べさせたのだろう。
猪飼はそんな疑問を、それ以上深く考えることなく、次の瞬間には視線を別の方向へ移していた。会場には、まだ確かめるべきことが山ほどあった。あの男が何を買ったかなど、この時点の猪飼にとっては、無数にある違和感の中の、ほんの一つに過ぎなかった。
その判断が、後にどれほどの意味を持つことになるか、この夜の猪飼は、まだ知らない。




