第四十九章 最後の落札者
決断を下せないまま、猪飼が数日を過ごしていたある夜、稲本から、これまでにない緊迫した口調のメッセージが届いた。
猪飼さん。至急、お伝えしなければならないことがあります。今夜、いつもの場所で。
猪飼が指定の喫茶店に着くと、稲本はすでに席についていた。その表情は、猪飼がこれまで見てきたどの瞬間よりも、張り詰めていた。
「何があったんですか」
稲本は、テーブルの上に、一枚の書類を差し出した。
「これは、このオークションの、最も根本的な規約の一つです。今まで、あえてお伝えしていませんでした」
猪飼は、その書類に目を通した。文言は簡潔だった。
秘密を知った者は、その秘密を落札したものとみなす。
猪飼は、その一文の意味を、すぐには理解できなかった。
「どういうことですか」
稲本は、静かに、しかし確かな声で言った。
「猪飼さん。あなたは、Lot 0――このシステムそのものの秘密の、すべてを解き明かしました。起源、構造、懸野さんの死の全貌、そして、あなた自身がこのシステムに組み込まれていた経緯まで。すべてを、正確に理解した」
「それが、何か」
「規約上、これは、正式な落札と同義です。あなたは、金銭を支払っていない。入札にも参加していない。ですが、秘密そのものを完全に手に入れたという事実において、あなたは、今回の最終オークションの、正式な落札者になっています」
猪飼は、言葉を失った。
「――俺が、落札者?」
「そうです」
猪飼の脳裏に、これまでの様々な場面が、次々と蘇った。
第一回のオークションで、稲本が最後に告げた、あの言葉。
「あなたが本当に欲しいものが出品されるまで、まだ少し時間がかかりますので」
あの言葉は、単なる社交辞令ではなかった。稲本は、最初から、猪飼がいずれこの立場に至ることを、見越していたのだ。
「なぜ、最初から教えてくれなかったんですか」
「教えたところで、意味がなかったからです」稲本は静かに言った。「この規約は、事前に知っていたところで、避けられるものではありません。真実を追い求める人間は、いずれ、必ず、この規約の対象になる。それが、このシステムの、いわば最後の仕掛けです」
猪飼は、その言葉の重みを、じっくりと噛みしめた。
「落札者には、何が求められるんですか」
稲本は、静かに答えた。
「全記録の扱いを、決める権利――そして、責任です。公開するか、しないか。それを最終的に決める立場に、あなたは今、立っています」
猪飼は、深く息を吐いた。
これまで、猪飼は、この決断を、自分一人が背負うべき重荷だと感じていた。だが、今、その重荷が、単なる感覚ではなく、システムそのものによって、正式に猪飼へと課せられた、逃れようのない立場だったことを知った。
「これは――罠だったんですか」
稲本は、静かに首を振った。
「罠、というより。むしろ――このシステムの、最後の意志のようなものだと、わたしは思っています。真実に最も深く到達した人間に、その真実の扱いを委ねる。それが、誰にも設計されなかったこのシステムが、最後に残した、唯一のルールでした」
猪飼は、しばらく、無言で座っていた。
自分が追い求めていたはずの真相の、その最も奥にあったのは、犯人でも、黒幕でもなかった。
自分自身が、この物語の、最後の選択を下す当事者になっているという、逃れようのない事実だった。




