第四十六章 駒だった男
第四十六章 駒だった男
猪飼は、数日間、端末を開くことができなかった。
自分の名前が記された記録を見てしまってから、猪飼の中で、これまで積み上げてきた「調査者としての自分」という自己認識が、大きく揺らいでいた。だが、いつまでも目を背けているわけにはいかなかった。
猪飼は、覚悟を決め、再び端末を開いた。今度は、自分のフォルダの中を、より深く掘り下げるためだった。
記録の中に、猪飼が探し求めていた答えが、ようやく見つかった。
五年前、猪飼が受けたとされる「匿名タレコミの電話」――その発信記録が、システムの内部ログとして残されていた。
発信元は、当時のシステムの、ごく初期の運営担当者――今の稲本の、さらに前任にあたる人物のものだった。名前は記されていなかったが、その人物の役割についての注記が、猪飼の目を釘付けにした。
対象者(猪飼寛貴)を、特定の企業への取材へと誘導。目的:内部告発者(葉山蓮)との接触機会を創出し、当該告発者を通じた情報の流通経路を確立するため。
猪飼は、その一文を、何度も読み返した。
自分が「自らの意志」で嗅ぎつけたと信じていた企業への取材は、最初から、猪飼を葉山と引き合わせるために、意図的に仕組まれたものだった。
猪飼は、記録をさらに遡った。そこには、猪飼という人間が、なぜ「駒」として選ばれたのかについての、簡潔な分析メモも残されていた。
対象者は、正義感が強く、一度食いついた事件を手放さない性質を持つ。情報源との信頼関係を築きやすく、また、記事化に至った場合の社会的影響力も見込める。
猪飼は、その分析が、あまりにも的確に自分の性質を言い当てていることに、強い屈辱を覚えた。自分という人間の性格そのものが、システムにとって、都合よく利用できる「材料」として、値踏みされていたのだ。
猪飼は、記録の続きを読み進めた。
猪飼が記事を書こうとし、そして葉山が失踪する――その一連の流れも、システムにとっては、想定内の展開だったことが示唆されていた。猪飼の記事が世に出るか出ないかに関わらず、葉山という内部告発者が、猪飼という記者と接触したという事実そのものが、システムにとって、何らかの価値を持つ情報だったのだ。
そして、猪飼が記者を辞め、フリーの調査記者として、独自に事件を追い続けるようになったこと――それすらも、システムにとっては、次の展開への布石だったのかもしれない。
猪飼は、端末を閉じ、しばらく、暗い部屋の中で、動けずにいた。
――俺は、事件を追っていたのではない。
――事件を起こすための、駒として、最初から動かされていた。
その事実を、猪飼はこれまで、疑いとして抱いてはいた。だが、こうして明確な記録として突きつけられると、その衝撃は、猪飼が想像していたよりも、はるかに深いものだった。
五年間、猪飼が正義感から追い続けてきたと信じていたものの正体が、実は、自分自身が知らないうちに演じさせられていた、一つの役割に過ぎなかった。
猪飼は、拳を強く握りしめた。
だが、その拳の中に、単なる絶望だけがあったわけではなかった。
もし自分が、これまでずっと、このシステムの掌の上で踊らされていたのだとすれば――今、この瞬間、その事実に気づき、その上で、あえてこのシステムに立ち向かうという選択をすることこそが、猪飼にとって、初めて、自分自身の意志で下す決断になる。
猪飼は、深く息を吐いた。
これまでとは違う種類の覚悟が、猪飼の中に、静かに、しかし確かに芽生え始めていた。




