第四十四章 葉山蓮
最終開催を数日後に控えたある夜、香蓮から、思いがけない連絡が届いた。
「猪飼さん。会ってほしい人がいます」
指定されたのは、都心から離れた、古い倉庫街の一角だった。猪飼が到着すると、香蓮がすでに待っていた。その表情には、これまで見たことのない、緊張と覚悟が入り混じっていた。
「誰に会わせてくれるんですか」
「もう、お気づきのはずです」
猪飼は、その言葉の意味を、すぐに理解した。
倉庫の中に入ると、薄暗い空間の奥に、一人の男が立っていた。痩せた体つき、右足を軽く引きずるような立ち方。猪飼は、その姿を、写真でしか見たことがなかった。だが、間違いなかった。
「葉山さん」
男は、静かに頷いた。
「猪飼さん。五年ぶり、いや――お会いするのは、初めてでしたね。声だけは、覚えていますが」
その低く抑えた声に、猪飼は、五年前、電話越しに何度も聞いた声を、鮮明に思い出した。
「生きていらっしゃったんですね」
「消されはしましたが、殺されはしませんでした。その違いが、どれほどのものかは、うまく説明できませんが」
葉山の視線が、猪飼の背後にいる香蓮へと、静かに移った。
その瞬間、空気が、明らかに変わった。
「久しぶりだな」葉山が言った。感情の読めない、平坦な声だった。
「――ええ」香蓮の声は、かすかに震えていた。
その二人の視線が交わる瞬間を見た刹那、猪飼の脳裏に、ふいに一つの記憶が、鮮明な像を結んで蘇った。
五年前、葉山との接触を重ねていたあの頃、猪飼は一度だけ、彼の自宅アパートの前で、張り込みをしたことがあった。取材の裏を取るための、ごく短い時間だった。
あのとき、アパートの入り口の近くに、一人の女性が立っていたのを、猪飼は覚えていた。顔ははっきりとは見えなかった。
ただ、その女性が、葉山の部屋がある方向を、じっと、感情を押し殺したような表情で見上げていたことだけを、猪飼は記憶の片隅に留めていた。
――あれは、彼女だったのか。 猪飼は、香蓮の横顔を、改めて見つめた。
あの既視感――感情を出さないことで、何かを守っているような、あの態度。その正体は、五年前、猪飼自身が、正体を知らないまま、確かに一度だけ目にしていた光景だったのだ。
猪飼は、その事実を、誰にも告げなかった。ただ、自分の中で、一つの小さな符合が、静かに、しかし確かに音を立てて嵌まったことだけを、感じていた。
「お前が、俺の居場所を売ったことは、知っている。稲本から、すべて聞いた」
香蓮は、何も言い返さなかった。ただ、深く頭を下げた。
「謝罪は、聞きたくない」葉山は続けた。「謝られたところで、俺が失った五年間は、戻ってこない」
「わかっています」
「それでも」葉山は、しばらく沈黙したあと、続けた。「お前が、この五年間、何をしてきたかも、稲本から聞いている。懸野を追い詰めるために、自分の立場を危険に晒し続けたことも」
香蓮は、顔を上げた。
「それは、わたしの罪滅ぼしにはならないと、わかっています」
「ならない」葉山は、はっきりと言った。「だが、無意味だとも思わない」
その言葉に、香蓮の目に、初めて涙が滲んだ。
猪飼は、二人のあいだに流れる、複雑な感情の応酬を、ただ黙って見守るしかなかった。憎しみと、愛情と、罪悪感と、それでも完全には断ち切れない繋がり――そのすべてが、この短い会話の中に、凝縮されていた。
「猪飼さん」葉山が、猪飼のほうを向いた。「あなたに、伝えておきたいことがあります」
「なんですか」
「あなたが五年前、俺と接触したきっかけ――あの匿名の電話について、心当たりがあります」
猪飼は、息を呑んだ。
「誰だったんですか」
葉山は、静かに、しかし確かな声で言った。
「それを話す前に、あなたには、最後のオークションで、自分自身の目で確かめてほしいことがあります。俺の口から伝えるより、そのほうが、あなたにとって、意味のあることのはずです」
猪飼は、その言葉に、これから待ち受ける真相の重さを、改めて実感した。
「一つだけ、教えてください。あなたは、地下オークションを、これからどうするつもりですか」
葉山は、しばらく沈黙したあと、静かに答えた。
「終わらせるつもりです。俺なりのやり方で」
その言葉の裏に、どんな覚悟が隠されているのか、猪飼にはまだ、はっきりとはわからなかった。だが、葉山の目に宿る光は、五年間の潜伏生活を経てもなお、消えていない強い意志を、確かに物語っていた。




