第四十一章 身辺調査記録
数日後、稲本から、思いがけない連絡が届いた。
「猪飼さん。お伝えしなければならないことがあります。お時間をいただけますか」
指定されたのは、いつもの喫茶店だった。猪飼が席に着くと、稲本は珍しく、一枚の封筒をテーブルの上に置いた。
「規約について、一つ、ご説明しておかなければなりません」稲本は静かに言った。「落札者の情報開示に関する規約には、一つの例外があります。落札者本人が亡くなった場合、その落札内容の秘匿義務は、失効します」
猪飼は、その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「――それは、つまり」
「懸野将基さんが、第一回のオークションで落札した『ある人物の身辺調査記録』。その内容を、今なら、あなたにお見せすることができます」
猪飼の心臓が、大きく跳ねた。
震える手で、猪飼は封筒を開いた。中から出てきたのは、詳細な調査報告書だった。表紙に記された対象者の名前を見た瞬間、猪飼は息を止めた。
対象者:懸野将基
猪飼は、しばらく言葉を発することができなかった。
「――自分自身の、記録だったんですか」
「そうです」
猪飼は、報告書のページを、震える手でめくっていった。そこには、懸野自身の交友関係、金銭状況、過去の不正への関与、そして――懸野が抱えていたであろう、様々な弱みが、詳細に記録されていた。
その中の一項目に、猪飼の目が釘付けになった。
Lot 47――ある人物の身辺に、近く生じる変化についての情報。
かつて猪飼自身が、第一回のオークションの出品リストで目にした、あの番号だった。
「Lot 47は――」
「懸野さんが、後日、追加で落札した情報です」稲本は静かに続けた。「内容は、彼自身の身に、近い将来、重大な変化が生じる可能性についての、予測分析でした」
猪飼は、報告書の該当ページを読み込んだ。そこには、懸野が過去に関わった複数の因縁――葉山蓮の一件を含む、これまでの取引の履歴から導き出された、彼自身が標的となるリスクについての、冷徹な分析が記されていた。
「懸野さんは――自分が、いずれ消される側に回ることを、予測していたということですか」
「そのようです」稲本は頷いた。「彼はこのシステムのルールを、誰よりも深く知っていました。だからこそ、自分がこれまで積み重ねてきた行為の結果として、いずれ自分自身が、誰かの標的になる可能性を、正確に見積もることができた」
猪飼の脳裏に、稲本がかつて語った、あの警句が蘇った。
「この場のルールを、誰よりも深く知っている人間ほど、危ない橋を渡ることになります」
あの言葉は、まさに懸野自身のことを、指していたのだ。
猪飼は、報告書のさらに先のページに、目を通していった。そこには、懸野が生前、密かに準備していたとみられる、一連の記録の写しがあった。
進士柊真との過去の金銭トラブルの記録。二人のあいだで交わされた、感情的な文言を含むメール。事件当夜、進士の車が通過したとされる、日常的な移動記録。
猪飼は、愕然とした。
これらはすべて、猪飼と多湖が「証拠過多殺人」として洗い出した、あの五つの証拠の一部と、ぴたりと一致していた。
「――懸野さん自身が、これを準備していたということですか」
「一部は、そうです」稲本は言った。「懸野さんは、自分がいずれ消されることを予感し、生前から、自分の死後、誰かが疑われるよう、周到に材料を集めていました。標的として選んだのは、かねてから確執のあった、進士柊真さんでした」
猪飼は、この事実の重みに、しばらく呆然としていた。
懸野は、自分の死を予感していた。だからこそ、無防備に殺されることを、ただ待っていたわけではなかった。
彼は、自分が死んだあとの世界にまで、悪意を仕込んでいた。
道連れにするために。
「では――誰が死ぬかを決めたのは香蓮さん。いつ死ぬかを決めたのは稲本さん。証拠を作り上げたのは眞弓さんという人。そして――誰が疑われるかを決めたのは」
猪飼は、その名前を、静かに口にした。
「懸野将基、本人だった」
稲本は、静かに頷いた。
「四つの要素のうち、一つだけが、被害者自身によって用意されていた。これは、猪飼さんが立てた仮説の中でも、最も歪んだ部分だったと言えるでしょう」
猪飼は、報告書を閉じた。
これまで、猪飼はこの事件を、複数の人間による、それぞれ別々の思惑の集合として理解しようとしてきた。だがその中に、被害者本人の意志までもが組み込まれていたという事実は、猪飼の想像を、はるかに超えるものだった。
殺されることを知りながら、自分を殺す側に近い人間を、道連れにしようとした男。
猪飼は、懸野将基という人間の、底知れない執念にも似た自己保身の姿に、これまでにない種類の戦慄を覚えた。
そして、猪飼の脳裏に、もう一つの問いが浮かび上がった。
もし、懸野が自分の死を予感していたのだとすれば――彼は、いったい何を根拠に、それを予感したのか。
その答えは、まだ猪飼の手の中にはなかった。だが、この事件の全貌が、少しずつ、しかし確実に、その輪郭を現し始めていた。




