第三十九章 最初の一滴
稲本は、猪飼からの申し出を受け、珍しく自分から場所を指定した。都心から離れた、古い喫茶店だった。
「ここは、わたしがこの世界に足を踏み入れる、少し前からある店です」
席に着くなり、稲本はそう切り出した。猪飼は、その前置きの意味を、まだ測りかねていた。
「Lot 31について、お聞きしたいことがあります」
稲本は、コーヒーカップを両手で包むように持ちながら、静かに語り始めた。
「わたしがこの世界に関わり始めたのは、今から二十年近く前です。当時、システムはすでに存在していましたが、今よりもずっと小規模で、素朴なものでした」
「その頃から、Lot 31は?」
「番号としては、後付けです。ですが、その番号が指す出来事――十五年前のあの一件は、わたしが直接見聞きした、最も古い記憶の一つです」
猪飼は、じっと耳を傾けた。
「詳しいことは、わたし自身、断片的にしか知りません。ただ、伝え聞いている限りでは――」
稲本は、コーヒーを一口飲んでから、続けた。
「最初は、たった一人の人間による、個人的な恨みから始まった取引でした。ある人物が、自分を裏切った相手の秘密を、金で買い取ってくれる誰かを探していた。それだけの、ごくありふれた話です」
「その人物は、誰だったんですか」
「わかりません。名前すら、記録に残っていません。当時から、匿名性は徹底されていましたから」
「では、その一件が、なぜシステム全体の起源になったんですか」
稲本は、静かに首を振った。
「起源というのは、少し大げさな表現かもしれません。実際に起きたのは、もっと単純なことです。その最初の取引を見た誰かが、真似をした。その真似を見た、また別の誰かが、さらに真似をした。それが、少しずつ広がり、いつの間にか、今のような形に、なっていったんです」
猪飼は、その説明に、拍子抜けするような、それでいて底知れない不気味さを覚えた。
「つまり――誰かが、意図してこのシステムを設計したわけではない、ということですか」
「わたしの知る限りでは、そうです。誰か一人の悪意や野心が、これを作り上げたわけではありません。ただ、一つの、個人的な取引が生まれ、それが模倣され、連鎖し、いつの間にか、制度として自立してしまった」
稲本は、猪飼をまっすぐに見た。
「猪飼さん。あなたはずっと、このシステムの『創始者』を探してきたはずです。ですが、探すべき対象は、最初から存在しなかったのかもしれません」
猪飼は、しばらく言葉を失っていた。
「では、あなたも――このシステムの成り立ちを、正確には知らないんですね」
「知りません。誰も知らないんです。記録は、意図的に消されたわけではなく、単に、あまりにも古く、そして最初から、記録するという発想自体が、誰にもなかったのだと思います」
猪飼は、この告白に、これまでのどんな発見よりも深い、静かな恐怖を覚えた。
悪意ある創始者がいるほうが、まだ理解しやすかった。誰か一人を倒せば、この歪んだシステムに終止符を打てるという、単純な希望が持てたからだ。
だが、もし本当に、誰も設計していないのなら――このシステムを止める方法自体が、これまで猪飼が思い描いていたものとは、まったく違う形になるかもしれない。
「猪飼さん」
稲本が、静かに声をかけた。
「もう一つ、お伝えしておかなければならないことがあります」
「なんですか」
「その最初の一滴と、今回のLot 0――懸野将基さんの一件は、別々の出来事のように見えて、実は同じ川の、遠く離れた二つの地点に過ぎません」
猪飼は、はっとした。
「具体的に、何がどう繋がっているんですか」
稲本は、静かに首を振った。
「特定の人物同士が、直接どこかで繋がっているという意味ではありません。ただ、十五年前のあの一滴がなければ、このシステムは今の形になっていなかった。そして、このシステムが今の形になっていなければ、懸野さんは、あなたの前に現れなかった。そういう意味での繋がりです」
「――それは、猪飼さん、あなた自身が、これから、もっと深く実感することになるはずです」




