第三十六章 引っかかり
主催者の不在という結論に行き着いてから、猪飼はしばらく、次の一手を見出せずにいた。
システムそのものが、誰の意志でもなく存在しているのだとすれば、猪飼がこれまで追ってきた「犯人探し」という枠組み自体が、意味を失いかねない。だが、それでも、懸野将基という一人の人間が死んだという事実だけは、動かない。
猪飼は、これまで集めてきた資料を、もう一度、初めから見返すことにした。招待状。第一回のオークションの記録。稲本との対話。香蓮の告白。Lot 0の発見。証拠の出所。
その作業の中で、猪飼はふと、ある一つの場面に、意識が引っかかった。
第一回のオークションで、懸野が身辺調査記録を落札した、あの夜の光景だった。
猪飼は、当時の記憶を、丁寧に辿り直した。
懸野は、資料をゆっくりと、一文字ずつ確かめるように読んでいた。あの落ち着き払った所作。長年、こういう場に慣れている人間の動き。
そして、その直後、稲本が猪飼に語った、あの警句。
「この場のルールを、誰よりも深く知っている人間ほど、危ない橋を渡ることになります」
あのとき猪飼は、その言葉が誰を指しているのか、まったく見当がつかなかった。今、振り返ってみると、あの言葉のタイミングは、あまりにも懸野の落札の直後に発せられている。
――まさか、あれは。
猪飼の中で、小さな違和感が芽生えた。だが、その違和感を、具体的な形にすることは、まだできなかった。
懸野が落札した「ある人物の身辺調査記録」。その対象が誰だったのか、猪飼はいまだに確認できていない。
――もし、あの記録の対象が、懸野自身だったとしたら。
その可能性が、猪飼の頭を一瞬よぎった。だが、猪飼はすぐに、その考えを打ち消した。自分の身辺調査記録を、わざわざ金を払って自分で落札する――そんな不自然な行動を、誰がするというのか。
猪飼はその夜、その違和感を、これといった答えの出ないまま、ノートの片隅に書き留めておくことにした。
懸野の落札した身辺調査記録。対象は誰だったのか。稲本の警句とのタイミング。
その一行が、この事件の核心にどれほど近づいているか、猪飼はこの時点では、まだ気づいていなかった。
猪飼は、他の手がかりを追うことを優先し、この違和感を、一旦頭の片隅に置いておくことにした。だが、それは決して忘れ去られたわけではなかった。むしろ、静かに、猪飼の中で発酵し続けていた。




