第三十五章 誰もいない場所
猪飼は、多湖と眞弓――いや、まだ眞弓の存在を正式には知らないまま、多湖の非公式なデジタル鑑識のツテを頼りに、稲本のもとに届く指示メッセージの、さらに先を追い始めた。
作業は困難を極めた。稲本の言った通り、通信経路は、辿ろうとするたびに、途中で不自然に途切れた。まるで、追跡そのものを想定して設計された仕組みのようだった。
猪飼は諦めず、別の角度から攻めることにした。指示メッセージそのものではなく、指示の「内容」を分析することで、その発信者の輪郭を掴めないかと考えた。
過去数年分、稲本が受け取ったとされる指示の記録――香蓮が漏らしてくれた断片や、稲本自身が語った内容――を、猪飼はもう一度、一つずつ検証していった。
そこで、猪飼はある奇妙な事実に気づいた。
指示の「文体」が、時期によって、微妙に異なっていたのだ。
ある時期の指示は、極めて事務的で、簡潔だった。別の時期の指示は、多少の遊びのある言い回しが混じっていた。さらに別の時期には、まるで機械が自動生成したかのような、無機質な文面が続いていた。
まるで、指示を出す主体そのものが、時期によって入れ替わっているかのようだった。
猪飼は、この発見を稲本に伝えた。
「もしかしたら、あなたに指示を出している存在も、一人ではないのかもしれません」
稲本は、しばらく黙り込んだあと、静かに言った。
「猪飼さん。もし、そうだとしたら――」
「――もし?」
「わたしたちは、最初から、探すべき『誰か』を、間違えていたのかもしれません」
その言葉の意味を、猪飼はすぐには理解できなかった。
「どういうことですか」
「上に、誰かがいる。その誰かの、さらに上にも、誰かがいる。わたしたちは、その連なりの果てに、必ず誰か――このシステムを設計した、明確な意志を持った人物がいると、無意識に信じてきました。しかし」
稲本は、静かに続けた。
「もし、その連なりが、どこまで遡っても、誰にも行き着かないのだとしたら」
猪飼は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「それは、つまり――」
「誰も、作っていない。それでも、存在している。そういうシステムなのかもしれません」
その可能性は、猪飼がこれまで抱いてきた、あらゆる推理の前提を、根底から揺るがすものだった。
犯人を追えば、必ずその先に、犯人がいる。主催者を追えば、必ずその先に、主催者がいる。猪飼は、そう信じて調査を続けてきた。
だが、もしこのシステムに、そもそも「作った人間」が存在しないのだとしたら――猪飼が追いかけているものの正体は、根本から違う何かになる。
猪飼は、その夜、自室の壁に貼った相関図を、じっと見つめた。
矢印で結ばれた人物たちの名前。懸野、進士、香蓮、稲本、N――。だが、その相関図の最も上、本来「黒幕」と書かれるべき場所には、いまだに何も書き込むことができないままだった。
猪飼は、その空白の部分を、しばらく無言で見つめ続けた。




