第三十四章 指示
Nの謎が解けたことで、猪飼の中には、新たな確信が芽生えていた。
このシステムには、単純な階層構造がない。誰か一人の意志が、すべてを統べているわけではない。だとすれば、稲本という運営者の、さらに上には、いったい何があるのか。
猪飼は改めて、稲本に接触を試みた。
「あなたに指示を出しているのは、誰なんですか」
これまで何度も繰り返してきた質問だった。稲本の答えも、いつも同じだった。「わたしにもわかりません」。だが今回、猪飼は違うアプローチを取ることにした。
「指示は、どういう形で届くんですか。具体的に教えてください」
稲本は、しばらく躊躇したあと、珍しく詳細に答えた。
「暗号化されたメッセージです。差出人は表示されません。指示の内容は、常に簡潔で、理由の説明は一切ありません。ただ、何を、いつまでに、どのように処理するか、それだけが書かれています」
「その指示に、逆らったことは?」
「一度もありません」
「なぜですか」
稲本は、初めて、わずかに視線を逸らした。
「逆らう理由が、なかったからです。指示は常に、こちらの都合をよく理解した、合理的な内容でした。まるで――こちらの思考パターンを、完全に把握しているかのように」
猪飼は、その言葉に、薄ら寒いものを感じた。
「その指示の出所を、これまで一度も、突き止めようとしたことはないんですか」
稲本の表情が、初めて、明確な陰りを見せた。
「――一度だけ、試みたことがあります」
「結果は」
「何も見つかりませんでした。通信経路を辿ろうとするたびに、痕跡が、まるで最初から存在しなかったかのように消えていくんです。技術的に不可能なはずのことが、起きていました」
猪飼は言葉を失った。
「あなたは、それでも、指示に従い続けているんですか」
稲本は、静かに頷いた。
「これは、恐怖からではありません。むしろ――」
稲本は、そこで一度言葉を切った。
「むしろ?」
「もし、この指示を出している存在が本当に実在するなら、それを突き止めることに、意味があるのかどうか、わたし自身、疑問に思うようになりました」
猪飼は、その答えに、強い違和感を覚えた。
「意味がない、というのは、どういうことですか」
稲本は、静かに、しかし確信を持った声で言った。
「猪飼さん。もしかしたら、この指示を出しているのは、たった一人の、明確な意志を持った存在ではないのかもしれません」
その言葉は、猪飼の中で、これまでの調査で得たすべての手がかりと、静かに共鳴した。
Nが、一人ではなく複数だったように。
このシステムを動かす「上」もまた、単一の意志ではなく、もっと別の何かなのかもしれない。
猪飼は、その予感の正体を突き止めるべく、さらに上を追う決意を固めた。




