第三十三章 三つの独白
香蓮
Nという名前を、香蓮が初めて使ったのは、三年前のことだった。
懸野将基の周辺を探るために、香蓮は自分の身元を完全に隠す必要があった。稲本の目を盗み、独自に情報を集めるには、正規のルートは使えない。だから香蓮は、かつて聞きかじった、誰も正体を明かさない匿名の落札者の符牒を、こっそりと借りた。
「N」と名乗れば、誰も深く詮索してこない。それは、この世界に長くいた者だけが知る、都合の良い抜け穴だった。
香蓮がNとして落札したのは、いつも、懸野やその周辺に関する、個人的な情報ばかりだった。彼が誰と会っているか。何に金を使っているか。そして――いつか彼を追い詰めるための、決定的な弱み。
香蓮は、それが自分の復讐のための行動だと、はっきり自覚していた。だから、深夜、感情が高ぶったときにだけ、Nとしての取引を行った。冷静な判断ではなく、衝動に近い動きだったことは、香蓮自身、否定できなかった。
まさか、自分以外にもNを名乗る人間がいるとは、香蓮は想像したこともなかった。
稲本
稲本がNという符牒を使い始めたのは、もっと前――このシステムが今の形に整う、さらに以前のことだった。
稲本には、稲本自身の思惑があった。運営者としての立場では、あからさまに動けない取引がある。政治的な均衡を保つために、時には自分自身が、一介の参加者として、静かに市場を動かす必要があった。
稲本がNとして行う取引は、常に計算されていた。感情に流されることはない。落札した情報を、いつ、どのタイミングで、どう活用すれば、システム全体の均衡が最も効率よく保たれるか――それだけを考えて、稲本は動いていた。
稲本にとって、Nという匿名性は、運営者という立場から逃れるための、唯一の自由だった。
稲本もまた、他に誰かがNを名乗っているとは、考えたことがなかった。
眞弓
眞弓がNという名前を借りたのは、ごく実務的な理由からだった。
自分が普段扱っているデータベースへのアクセス権限には、常に制限がかかっている。だが、時折、依頼された作業を完遂するために、権限の外にある情報が必要になることがあった。
そんなとき、眞弓は「N」という、誰のものでもない匿名の枠を使って、必要な情報だけを、事務的に取得した。感情も、政治的な計算も、そこにはなかった。ただ、仕事を完遂するための、機能的な手段に過ぎなかった。
眞弓は、この匿名の枠が、稲本の管理システムの中に、いわば「共有の抜け道」として存在していることを知っていた。だが、それを他に誰が使っているのかまでは、考えたこともなかった。
三人は、それぞれ別々の理由で、同じ「N」という名前を使っていた。
香蓮は、復讐のために。
稲本は、システムの均衡を保つために。
眞弓は、仕事を完遂するために。
三者は互いに、他の二人が同じ符牒を使っていることを、まったく知らなかった。誰かがそれを意図して設計したわけでもない。ただ、匿名という便利な抜け道が、そこに存在し、それぞれが、それぞれの都合で、それを利用しただけだった。
猪飼が追い求めていた「N」という謎の人物は、最初から、存在しなかった。
存在していたのは、三つの、まったく異なる思惑を持った人間たちが、偶然、同じ名前の影の中に、身を隠していたという、ただそれだけの事実だった。




