第三十二章 三つの指紋
多湖の伝手で、猪飼は再び、あのデジタル鑑識担当者に協力を仰いだ。今回調べてもらったのは、Nの名義で行われた過去の取引記録――決済に使われた暗号通貨のウォレット履歴と、通信ログの断片だった。
数日後、報告が届いた。
「面白い結果が出ました」担当者は、資料を広げながら言った。「Nの名義で行われた取引を、生成環境ごとに分類してみたんです。すると――」
猪飼は身を乗り出した。
「三つの異なる環境が、混在していることがわかりました」
担当者は、猪飼と多湖の前に、三色に色分けされたグラフを差し出した。
「一つ目のグループは、平日の日中、比較的規則正しい時間帯に集中しています。使われている通信環境は、企業や官公庁でよく見られる、堅実なセキュリティ設定のものです」
「二つ目は?」
「深夜から早朝にかけて、不規則な間隔で発生しています。感情的な言葉遣いのメモが、取引記録に添えられていることもありました。個人の端末から、特に対策を施さずに接続している痕跡です」
「三つ目は」
「これが一番特徴的でした。取引そのものは事務的で、時間帯も一定しているのですが、使われている技術がずば抜けて洗練されています。おそらく、専門的な知識を持つ人間が、意図的に痕跡を消しながら操作しています」
猪飼は、三つのグループを、これまで整理してきた「政治系」「私怨系」「技術系」という分類と、頭の中で重ね合わせた。ぴたりと一致していた。
「決定的なのは、これです」担当者は、一枚の資料を指した。「三年前のある日、Nの名義で、ほぼ同時刻に、二つの異なる場所で、それぞれ別々の取引が成立しています。一つは都内、もう一つは、通信記録から見て、遠く離れた地方都市からのアクセスです」
「同一人物には、不可能な話ですね」多湖が言った。
「物理的には、不可能です」
猪飼は、その報告書を、しばらく無言で見つめていた。
これで、疑いは確信に変わった。
「N」は、一人の人間ではない。少なくとも三人、おそらくはそれ以上の人間が、同じ符牒を、それぞれ別々の目的のために使い回していた。
猪飼は、頭の中で、これまで出会った顔ぶれを、もう一度思い浮かべた。
冷静で計算高い、政治的な判断をする人物。
感情的で、私怨に基づいて動く人物。
事務的で、技術に精通した人物。
その三つの人物像が、猪飼のこれまでの調査で出会った、ある三人の顔と、静かに重なり始めていた。
だが、猪飼はまだ、その重なりを、確信を持って口にすることができなかった。もし自分の推測が正しければ、それは、これまで猪飼が信じかけていた人間関係の一部を、根底から覆すことになる。
猪飼は、その夜、報告書を鞄にしまいながら、深く息を吐いた。
――誰が、Nを名乗っていたのか。
その答えに近づくことは、この事件のさらに奥深くへ、猪飼を引きずり込むことを意味していた。




