第三章 香蓮
十一日後の夜、猪飼は招待状に記された座標を頼りに、都心の外れにある雑居ビルの前に立っていた。
看板の消えたテナントが並ぶ、七階建ての古いビルだった。一階には、もう何年も営業していないらしい喫茶店の跡が残っている。猪飼はしばらくその場に立ち、周囲を観察した。監視カメラらしきものは見当たらない。だが、見当たらないということ自体が、逆に不自然だった。
「時間通りですね」
声は背後からした。振り返ると、女が立っていた。
年齢は三十前後だろうか。仕立ての良い黒のパンツスーツに、季節外れの手袋をはめている。真夏の終わりに、それも屋外で、皮の手袋をしている人間を、猪飼はこれまで見たことがなかった。
「桑原と申します。ご案内します」
名乗ったのはそれだけだった。名前が本名なのかどうか、猪飼には判断のしようがなかった。
「あなたが、あの手紙を?」
「いいえ」
即答だった。感情の乗らない、事務的な否定。
「わたしは、案内役です。それ以上のことは、お話しできません」
猪飼はそれ以上食い下がらなかった。今この場で問い詰めたところで、答えが返ってくるとは思えなかった。桑原と名乗った女は、猪飼の返事を待たずに歩き出し、雑居ビルの脇にある、人一人がやっと通れる路地へと入っていった。
路地の奥には、業務用エレベーターがあった。ボタンは擦り切れていて、何階まであるのか表示が読めない。桑原は迷いのない動きで、表示のないボタンを押した。
エレベーターが動き出すあいだ、猪飼は横に立つ桑原の横顔を観察した。整った顔立ちだが、表情筋がほとんど動いていない。ただ一点、手袋をはめた両手だけが、無意識のようにエレベーターの手すりを強く握っていた。
「その手袋、暑くないですか」
猪飼は何気なく聞いた。世間話のつもりだった。
桑原は一瞬、猪飼のほうを見た。表情は変わらなかったが、その一瞬の沈黙に、猪飼は何かが引っかかるのを感じた。
「癖なんです」
それだけ答えると、桑原は再び正面を向いた。会話はそこで終わった。
エレベーターが止まった。扉が開いた先は、猪飼が想像していたような、地下の薄暗い密室ではなかった。むしろ逆で、静かに照明の落とされた、上品な内装のフロアだった。まるで会員制のクラブか、高級ホテルのラウンジのようだった。
「ここで、いったん」
桑原は猪飼をフロアの中央、革張りのソファが並ぶ待合スペースのような場所まで案内すると、それ以上は何も言わずに、来た道を戻っていった。
猪飼は一人残された。ソファに座る気にはなれず、立ったまま、フロアの奥を見渡した。奥にはもう一つ、重厚な扉がある。あの向こうに、招待状が示していた場所――地下オークションの本体があるのだろう。
猪飼は腕時計を確認した。約束の時刻まで、あと十分。
その十分のあいだ、猪飼は桑原の手袋のことを、なぜか頭から追い払うことができなかった。理由は自分でもわからなかった。ただ、あの手袋には、季節や気分といった単純な言葉では片付けられない何かがある――そんな直感だけが、猪飼の中に残っていた。
やがて、奥の扉が音もなく開いた。




