第二章 尾崎
翌朝、猪飼は五年ぶりに、尾崎の携帯に電話をかけた。
尾崎は当時の担当編集者で、猪飼が記者を辞めるときに唯一、慰留らしい慰留をしてくれた人間だった。今は系列の週刊誌に異動していると、風の噂で聞いていた。
「――珍しいな、お前から電話とは」
電話越しの声は、記憶にあるよりも少し掠れていた。猪飼は世間話もそこそこに、用件を切り出した。
「昔の件、覚えてますか。俺が五年前に潰した企業の不正告発の件」
一拍の間があった。
「覚えてるも何も、忘れたことなんかない。あれで社に居づらくなったのはお前だけじゃないんだぞ」
「その件について、妙な手紙が来たんです」
猪飼は招待状の内容を、金額や場所の詳細は伏せたまま伝えた。尾崎は黙って聞いていたが、最後に短く言った。
「それは、放っておけ」
「なんでですか」
「あの件は、掘れば掘るほど深くなる沼だった。お前が辞めたあとも、俺は少しだけ独自に調べた。だが途中でやめた。理由は言わない。言えば、お前もやめられなくなるからだ」
猪飼はその答えに苛立ちを覚えたが、無理に聞き出そうとはしなかった。かわりに、当時のことを頭の中で整理し直す作業に取りかかった。
思い出すのは、いつも同じ順番だった。
きっかけは、猪飼が独自に嗅ぎつけた、ある企業の粉飾決算の噂だった。取材を進めるうち、社内の人間から連絡が来た。名乗らない男だった。最初の接触は、猪飼が張っていた企業の本社ビル前で、向こうから声をかけてきた形だった。
――そう、猪飼は長らくそう記憶していた。自分が嗅ぎつけ、自分が足で稼ぎ、その結果として情報源が向こうから接触してきたのだと。
しかし今、招待状の一文を思い出したあとでは、その記憶の順番そのものが、急に危うく見えてくる。
本当に、自分が先に嗅ぎつけたのか。
それとも――嗅ぎつけるように、仕向けられていたのか。
考えても答えは出ない。五年という歳月は、記憶の順番を都合よく編集するには十分すぎる長さだ。猪飼は自分の記憶を、もう一度信じていいのかどうか、わからなくなっていた。
「猪飼」
電話の向こうで、尾崎が名前を呼んだ。
「もし本当に何か動くなら、一人でやるな。俺に連絡しろ。約束できるか」
「善処します」
「それは約束とは言わない」
猪飼は笑わなかった。笑えるような話ではなかった。
電話を切ったあと、猪飼はデスクの引き出しを開け、招待状をもう一度取り出した。文面を読み返すたびに、あの一文が新しい意味を帯びていくような気がした。
あなたが五年前に探していた事件の真相を、競売にかけます。
――探していたのは、誰の意志だったのか。
その問いを、猪飼はまだ言葉にできずにいた。ただ、十一日後の満月まで、答えを探す時間だけは残されている。
猪飼は取材ノートのコピーを鞄に詰め、五年ぶりに、あの企業の周辺を歩いてみることにした。




