第一章 招待状
その封筒が郵便受けに入っていたのは、雨の降らない八月の終わりだった。
猪飼寛貴は、他人の郵便物でも見るような目でそれをしばらく眺めていた。宛名はワープロで打たれている。差出人の記載はない。切手は貼られておらず、消印もない。つまり、誰かが直接、この古いアパートの郵便受けまで足を運んで入れていったということだ。
厚みのある封筒だった。中身は一枚の紙だけだと、指の感触でわかる。それにしては妙に重い。
部屋に戻り、玄関の三和土に立ったまま封を切った。
中から出てきたのは、白い便箋が一枚。文面は短い。
あなたが五年前に探していた事件の真相を、競売にかけます。
最低入札額――一千万円。
ご興味があれば、次の満月の夜、指定の場所へ。
たったそれだけだった。場所を示す座標らしき数字が、文末に添えられている。
猪飼は便箋を持ったまま、しばらく玄関に立ち尽くしていた。
一千万円。冗談としか思えない金額だ。フリーの調査記者に、そんな金があるはずもない。第一、こんな手紙は詐欺か悪戯に決まっている。世の中には、他人の過去を掘り返して脅すことを生業にしている人間がいくらでもいる。
そう自分に言い聞かせながら、猪飼は便箋をもう一度読み返した。
五年前に探していた事件。
その一文だけで、頭の奥に鈍い痛みが走った。
五年前、猪飼はまだ中央紙の記者だった。ある企業の不正を追っていた。情報源は、その企業に勤める内部告発者――名前は伏せられていたが、猪飼は彼と何度も接触し、証拠を積み上げていった。記事はもう少しで出るところだった。
だが、情報源は消えた。
文字通り、消えたのだ。ある日を境に連絡が取れなくなり、自宅はもぬけの殻で、会社は「一身上の都合により退職」とだけ発表した。警察に相談しても、事件性なしと判断された。猪飼は記事を出せないまま、やがて会社から担当を外され、半年後には辞表を出した。
それ以来、猪飼はその件について誰にも――自分自身にすら、深くは語ってこなかった。
だから、この手紙が「五年前に探していた事件」と書いてきたとき、猪飼が最初に思ったのは、恐怖ではなく苛立ちだった。
――誰だ。
誰が、あの件を知っている。当時の担当編集者以外に、あの事件の核心を知る人間はほとんどいなかったはずだ。情報源の名前も、消えた経緯の詳細も、猪飼が独自に掴んでいた部分は、記事にすらなっていない。
猪飼は便箋を蛍光灯にかざした。透かしはない。紙質はどこにでもあるコピー用紙。文字はプリンターで打たれたもので、筆跡からの特定は不可能だ。
――偽物だろう、これは。
そう結論づけようとして、しかし猪飼の手は便箋を捨てなかった。
代わりに、テーブルの上に置いてあった別の紙の束を引き寄せた。五年前、まだ手放せずにいる取材ノートのコピーだ。そこに書き殴られた固有名詞と、便箋の文面を、何度も見比べる。
一致する言葉はない。当たり前だ。しかし文面のどこか――言い回しの端々に、猪飼はかすかな既視感を覚えていた。それがどこから来る感覚なのか、この時点ではまだわからなかった。
ただの偶然だ。
そう自分に言い聞かせながらも、猪飼は便箋をシュレッダーにかけることができなかった。
窓の外はいつの間にか暗くなっていた。八月の終わりだというのに、風はすでに秋の匂いを含んでいる。猪飼は便箋をデスクの引き出しにしまい、鍵をかけた。
鍵をかけたところで、意味などないことはわかっていた。この手紙を送ってきた誰かは、猪飼のアパートの場所も、五年前の記憶も、すでに知っている。引き出しの鍵一つで守れるものなど、何もありはしない。
その夜、猪飼は眠れなかった。
天井を見つめながら、猪飼は五年前の情報源の顔を思い出そうとした。だが不思議なことに、はっきりと思い出せるのは、彼の声だけだった。
「猪飼さん、これは俺から持ちかけた話じゃないんです。誰かに、あなたに会えと言われた気がするんですよ」
当時は聞き流した一言だった。情報源が神経質になっている、そのくらいにしか受け取らなかった。
今になって、その言葉が違う重みを持って猪飼の中に沈んでくる。
誰かに、あなたに会えと言われた気がする。
――誰に。
答えの出ない問いを抱えたまま、猪飼は次の満月がいつなのかを、スマートフォンで調べた。
十一日後だった。




