第三十章 N
猪飼は、稲本との対話以降、システムそのものの構造を理解するために、過去のオークションの落札記録を、可能な限り遡って調べることにした。
正規のルートでは手に入らない資料だったが、松尾のツテと、多湖の非公式な協力、そして香蓮からわずかに漏れる情報の断片を繋ぎ合わせることで、猪飼は過去数年分の、断片的な落札履歴を再構築することができた。
その作業の中で、猪飼はある一つの符牒に、繰り返し行き当たった。
N
アルファベット一文字だけの、落札者の識別名だった。
過去の記録を遡れば遡るほど、この「N」という名前は、様々な出品物の落札欄に、繰り返し現れた。政治家の過去、企業の内部文書、個人の秘密――ジャンルを問わず、高額な出品物のほとんどに、Nの名前が絡んでいた。
猪飼は、香蓮に尋ねてみた。
「Nというのは、誰なんですか」
香蓮の反応は、これまでのどの質問に対するものとも違っていた。彼女は明らかに、動揺した様子を見せた。
「――なぜ、その名前をご存知なんですか」
「過去の落札記録を調べていたら、繰り返し出てきました。よほどの資産家か、あるいは相当な権限を持つ人物なんでしょうね」
香蓮は、しばらく黙り込んでいた。
「猪飼さん。Nについては、わたしも詳しくは知りません」
「知らない、というのは」
「顔を見たことがないんです。誰も」
その返答に、猪飼は驚きを隠せなかった。
「毎回、これほど高額な取引をする人物の顔を、誰も見たことがないというのは、どういうことですか」
「取引はすべて、代理人を通じて行われます。稲本さんですら、Nの正体を把握していないという噂もあります」
猪飼の中で、新たな疑問が膨らんだ。
もしNが実在の、一人の人物なら、これほど徹底して匿名性を守る理由がある。だが、もしNが一人の人物ではなく――。
猪飼はふと、ある可能性に思い至った。だが、その考えは、この時点ではまだ、あまりにも突飛に思えて、猪飼自身、すぐには言葉にできなかった。
「Nの落札履歴を、もっと詳しく知る方法はありませんか」
香蓮は、しばらく躊躇したあと、静かに頷いた。
「稲本さんに聞かないと、これ以上のことは、わたしにもわかりません。ただ――」
香蓮は、そこで言葉を切った。
「ただ?」
「気をつけてください、猪飼さん。Nについて深く探ることは、これまでのどの調査よりも、危険かもしれません」
その警告の重みを、猪飼はこの時点では、まだ十分には測りかねていた。だが、Nという符牒の向こうに、この物語の核心に関わる、何か決定的な真相が隠されているという予感だけは、猪飼の中に、確かに芽生えていた。




