第二十九章 結節点
猪飼は、稲本に直接会うことを決めた。桑原を介さず、稲本の携帯番号を、これまでのやり取りの中で密かに控えていた。
「お話ししたいことがあります。今夜、時間はありますか」
意外にも、稲本はすぐに応じた。指定されたのは、以前とは違う、静かなバーの奥の席だった。
猪飼が席に着くと、稲本はすでにグラスを傾けていた。表情は、いつもと変わらず穏やかだった。
「証拠のメタデータの件、聞きました」稲本は先手を打つように言った。「優秀な鑑識担当者をお持ちのようですね」
猪飼は、その余裕に苛立ちを覚えながらも、冷静に続けた。
「あなたは、真実を売る市場と、嘘を売る市場、その両方を運営している。なぜ、そんなことをする必要があるんですか」
稲本は、グラスを置いた。
「猪飼さん。あなたは、真実だけがあれば、世界は正しく動くと思っていますか」
「少なくとも、嘘よりはましです」
「本当にそうでしょうか」稲本は静かに続けた。「真実というものは、単体では、しばしば力を持ちません。人々は、真実よりも、わかりやすい物語を求めます。だからこそ、真実を効果的に流通させるためには、時に、それを補強する『物語』――言い方を変えれば、真実とは異なる要素が必要になることがあります」
「それは、詭弁です」
「そうかもしれません」稲本は否定しなかった。「ですが、結果として、社会は動きます。真実だけを愚直に発信し続けても、誰にも届かないまま埋もれていく情報は、山ほどあります。わたしたちは、その真実を、確実に社会へ届けるための、いわば触媒を提供しているに過ぎません」
猪飼は、その論理の危うさに、強い反発を覚えた。
「あなたたちがやっているのは、真実を届けることじゃない。都合の良い結果を作り出すために、真実と嘘を、恣意的に使い分けているだけだ」
稲本は、猪飼の言葉に、初めてわずかに表情を変えた。それは怒りではなく、むしろ、どこか物悲しい笑みだった。
「猪飼さん。あなたは、まだこのシステムの、ほんの一部しか見ていません」
「どういう意味ですか」
「真実と嘘、その二つの流れが、なぜ、どのように使い分けられているのか。それを理解するためには、もっと上――このシステム全体の目的そのものを、知る必要があります」
「その目的とは」
稲本は、しばらく沈黙したあと、静かに言った。
「それは、わたしの口から軽々しく語れるものではありません。ただ、一つだけ、はっきりと申し上げておきます」
稲本は、猪飼の目を、まっすぐに見た。
「あなたが今、追いかけているものは、一人の悪人でも、一つの組織でもありません。あなたが向き合おうとしているのは、社会そのものが持つ、ある種の必然です」
その言葉の重みに、猪飼は一瞬、言葉を失った。
「必然、というのは――」
「いずれ、おわかりになります」
稲本は、それ以上は語らず、静かにグラスを傾けた。会話は、そこで終わった。
猪飼はバーを出て、夜の街を歩きながら、稲本の言葉を何度も反芻していた。
真実と嘘。その両方を操るシステム。そして、その先にある「社会そのものが持つ必然」という、あまりにも大きすぎる言葉。
猪飼はこの夜、初めて、自分が追っている相手の正体が、一人の人間の悪意などではなく、もっと巨大で、もっと捉えどころのない何かであることを、はっきりと実感した。




