第二十四章 駒
数日後、猪飼は香蓮を、前回と同じ雑居ビルの一室に呼び出した。今回は、猪飼のほうから場所を指定した。
「懸野将基が、五年前、葉山さんの勤めていた企業の社外顧問だったことがわかりました」
猪飼は前置きなしに切り出した。香蓮の表情は、わずかにも動かなかった。
「顧問料は、企業の資産管理会社を通じて、懸野個人に流れていました。時期は、葉山さんが失踪する直前です」
「――それが、何か」
「あなたは、その頃、すでにこの場所にいたはずです。葉山さんの居場所に関する情報が、誰かからオークション側に流れた。あなたはそれを、否定しませんでしたね」
香蓮は視線を伏せた。しばらくの沈黙のあと、静かに口を開いた。
「わたしは、当時、末端の連絡役でした。上からの指示で、いくつかの情報を扱っていたことは事実です」
「葉山さんの情報も、その中に含まれていたんですか」
「――含まれていたかもしれません」
歯切れの悪い答えだった。だが猪飼は、その言葉の背後に、香蓮がまだ語っていない、もっと重い何かがあることを感じ取っていた。
「あなたは、葉山さんを知っていたんですか。個人的に」
その問いに、香蓮の指先が、わずかに震えた。手袋の上からでも、猪飼にはそれがわかった。
「――それについては、今は、お答えできません」
「今は、というのは」
香蓮は答えなかった。ただ、痛みを堪えるような、ごくわずかな表情の変化だけが、その顔をよぎった。
猪飼はそれ以上、香蓮を追い詰めることができなかった。彼女の沈黙の中に、単なる隠蔽ではない、もっと個人的な苦しみが滲んでいることに、気づかないふりはできなかった。
「わかりました。今日はこれで」
猪飼はそう言って、話を切り上げた。だが部屋を出る間際、香蓮が背後から、思いがけない一言を発した。
「猪飼さん」
猪飼は振り返った。
「五年前――あなたが、あの企業に興味を持ったきっかけは、覚えていますか」
猪飼は言葉に詰まった。まさにその問いこそ、猪飼自身が、この数週間ずっと自分に問い続けていたものだった。
「――なぜ、それを聞くんですか」
香蓮は、それには直接答えず、ただ静かに続けた。
「もし、あなたのその『きっかけ』が、あなた自身の意志ではなかったとしたら――あなたは、それでも今と同じように、真相を追い続けますか」
その言葉を最後に、香蓮はそれ以上何も語らなかった。
猪飼は雑居ビルを出て、夜の街を一人歩きながら、香蓮の問いを何度も反芻していた。
香蓮の言葉は、質問というより、確認に近かった。まるで、猪飼がすでに気づいているはずのことを、あえて言葉にして突きつけてきたかのように。
猪飼の脳裏に、取材ノートの余白に残された、あの走り書きが蘇った。
匿名タレコミ、電話。09/14。
猪飼は、五年前、自分が「自らの意志で」あの企業に目をつけたのだと、ずっと信じてきた。だが今、その前提そのものが、根底から崩れかけている。
もし、あの匿名の電話が、地下オークションに繋がる誰かからのものだったとしたら。
もし、猪飼が葉山と接触したことすら、最初から仕組まれた筋書きの一部だったとしたら。
――俺は、事件を追っていたのではない。
――事件を起こすための、駒として動かされていたのかもしれない。
その可能性に、猪飼は初めて、はっきりとした形で向き合うことになった。足元が崩れていくような感覚に、猪飼はしばらく、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
自分が五年間、正義感から追い続けてきたと信じていたものの正体が、実は、自分自身が知らないうちに演じさせられていた役割に過ぎなかったのかもしれない。
その疑念は、これまでのどんな発見よりも深く、猪飼の心を蝕んでいった。




