第二十三章 手袋
猪飼を見送ったあと、香蓮は一人、事務所として使っている雑居ビルの一室に戻った。
明かりをつける気にはなれなかった。窓から差し込む街灯の光だけで、部屋は十分だった。香蓮はソファに座り、まだ手袋をはめたままの両手を、じっと見つめた。
五年前のあの夜のことを、香蓮は一度も、誰かに語ったことがなかった。
当時、香蓮は稲本の下で、末端の連絡役として働いていた。仕事の内容は単純だった。指定された相手に接触し、情報を受け渡す。それだけの役目だと、当時は思っていた。
葉山蓮と出会ったのは、その仕事を通じてだった。彼は、勤めていた企業の不正を告発しようとしている、生真面目な男だった。最初は単なる情報提供者の一人として接していたはずが、いつの間にか、香蓮は彼に惹かれていった。
葉山も、香蓮に心を開いていった。彼は、証拠を集めながら、二つのルートを同時に探っていた。新聞記者への正規のルートと、香蓮を通じた、もう一つの裏のルートを。
「猪飼という記者に賭けてみたい」と葉山が言ったとき、香蓮は複雑な感情を抱いた。自分を通じたルートよりも、正規の記者を信じたいという葉山の言葉に、密かに傷ついた自分がいた。だが同時に、それが正しい選択だとも思っていた。
だが、稲本の指示は違った。
「葉山の動きを、詳しく報告しろ」
その指示に従うことに、香蓮は当初、迷いがなかったわけではない。だが、稲本との関係――当時、香蓮は稲本の恋人でもあった――と、この仕事を失うことへの恐れが、迷いを覆い隠していった。
香蓮は、葉山の行動記録、自宅の場所、日々の予定を、少しずつ稲本に報告し続けた。葉山を裏切っているという自覚はあった。だが香蓮は、それを「仕事」という言葉で、自分自身から遠ざけていた。
そして、あの夜が来た。
深夜、稲本から短い指示が届いた。葉山の自宅の合鍵を、指定された人間に渡すように、という指示だった。香蓮は、葉山から預かっていた合鍵を、震える手で取り出した。
理由は聞かなかった。聞けば、自分がその先に何が起きるかを知ってしまうと、本能的にわかっていたからだ。
香蓮は、指定された場所で、見知らぬ男に合鍵を渡した。その男の顔を、香蓮は今でもはっきりと覚えている。恰幅の良い、初老の男――懸野将基だった。
鍵を渡す瞬間、香蓮の手は、抑えようもないほど震えていた。指先が冷たくなり、うまく力が入らなかった。鍵を落としそうになり、二度、拾い直した。
その夜以来、香蓮は素手で誰かと接触することが、できなくなった。
理由を、うまく言葉にすることはできない。ただ、あの震える指先の感覚が、今でも消えずに残っている。手袋をはめていれば、あの夜の感触を、少しだけ遠ざけられる。それだけのことだった。
葉山がその後、どうなったのか、香蓮は詳しくは知らされなかった。ただ、彼が「消えた」という結果だけを、後から知った。
罪悪感は、五年経った今も、消えることはなかった。むしろ、年々深くなっていくようだった。香蓮は自分に問い続けた。
――なぜ、あのとき鍵を渡してしまったのか。
――稲本のためか。仕事のためか。それとも、自分自身の保身のためか。
答えは、いつも同じところに行き着いた。全部だった。全部が、少しずつ絡み合って、あの夜の選択を作った。
数年後、葉山が生きているという噂を、香蓮は稲本を通じて耳にした。詳しい所在は、稲本ですら把握していないという。だが、生きているという事実だけで、香蓮の中の何かが、決定的に変わった。
もし葉山が生きているなら、いつか会わなければならない。そして、彼にどう向き合えばいいのか、香蓮にはまだわからなかった。
猪飼寛貴という男が現れたとき、香蓮の中に、一つの計画が芽生えた。
猪飼に、五年前の真相を追わせる。その過程で、懸野将基を――当時、葉山を消す側に回った男を――追い詰める。それは正義感からくる行動のようにも見えたが、香蓮自身は、その内側にあるものが、もっと歪んだ感情であることに、気づいていた。
これは復讐だった。だが、誰への復讐なのか、香蓮自身にも、正確にはわからなかった。
懸野への怒りなのか。
稲本への未練混じりの憎しみなのか。
それとも――あの夜、鍵を渡してしまった、自分自身への復讐なのか。
香蓮は、手袋をはめたままの両手を、そっと握りしめた。
答えの出ない問いを抱えたまま、香蓮はその夜も、素手で何かに触れることができないまま、一人、暗い部屋で夜を過ごした。




