第二十一章 葉山蓮 第二十二章 浮かび上がる名前
情報源の名前は、葉山蓮といった。
五年前、猪飼はその名前を、記事にも、公の場にも一切出さなかった。内部告発者を守るための最低限の配慮だった。だが今、猪飼はその名前を、改めて調べ直す必要に迫られていた。
まず当たったのは、葉山が当時勤めていた企業の元同僚だった。何人かに連絡を取り、ようやく一人、当時を知る人物と会うことができた。
「葉山さんとは、それなりに親しかったんです」その男は、居酒屋の隅の席で、声を潜めて言った。「彼が消える少し前、妙なことを言っていました」
「妙なこと、というのは」
「『会社の不正の証拠を、しかるべき人間に高く売る』って。冗談かと思ったんですが、あれは本気だったのかもしれません」
猪飼は、その言葉を聞いた瞬間、背筋に緊張が走るのを感じた。
「しかるべき人間、というのは、俺のことじゃなかったんですか」
「猪飼さんに話を持っていく前に、彼は別のルートも探っていたようです。ただ、詳しいことは、俺も聞いていません。ある日を境に、急に口数が減って、それから、いなくなりました」
猪飼はその夜、自宅に戻ってから、葉山について自分が持っているすべての資料を、もう一度洗い直した。当時の取材メモ、証拠として提出されかけていた社内文書のコピー、そして、葉山と交わした数少ないメールの記録。
その中に、猪飼がこれまで見落としていた一文があった。葉山が失踪する二週間ほど前に送ってきた、短いメールだった。
もし新聞に出せないなら、別の場所で高く買ってくれる人がいます。もちろん、そちらの方が話は早いですが、俺はまだ、猪飼さんに賭けてみたいと思っています。
当時の猪飼は、この一文を、単なる不満や苛立ちの表現だと受け取っていた。記事化が遅れていることへの、情報源からの牽制。だが今、地下オークションの存在を知った上で読み返すと、その意味はまったく違って見えた。
――別の場所。
高く買ってくれる人。
猪飼は確信した。葉山は、企業の不正の証拠を、新聞という正規のルートだけでなく、地下オークションという裏のルートにも同時に持ち込もうとしていた。あるいは、猪飼への情報提供そのものが、オークションでの取引を有利に進めるための、一種の駆け引きだったのかもしれない。
だとすれば、葉山を消したのは誰か。
企業側の人間か。それとも、オークション側の誰かが、葉山の行動を危険視したのか。
猪飼は、その両方の可能性を、慎重に頭の中で天秤にかけた。だが、決定的な答えには、まだたどり着けなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
五年前、猪飼が追っていた事件の中心には、すでに地下オークションの影が、静かに存在していた。猪飼はそれに気づかないまま、この五年間を過ごしてきたのだ。
猪飼は次に、五年前の企業側の動きを洗い直すことにした。当時、粉飾決算の疑いをかけられていた企業が、その後どう対応したのか。表向きは「内部監査の結果、問題なし」として処理されていたが、猪飼はその監査報告書の作成経緯に、改めて疑いの目を向けた。
古い官報や、企業の有価証券報告書の付属資料を調べていく中で、猪飼はある名前に行き当たった。 当時、その企業の社外顧問として、短期間だけ名を連ねていた人物――懸野将基。
契約期間はわずか三ヶ月。ちょうど、葉山が失踪した時期と重なっていた。
顧問料としては不自然なほど高額な金額が、懸野個人の資産管理会社を通じて支払われていた記録も見つかった。
「顧問業務の内容は、公式には『経営アドバイザリー』となっているが」猪飼は多湖に電話で報告した。「時期的に見て、これは葉山さんの告発を握りつぶすための工作費だったとしか思えません」 多湖は淡々と応じた。
「懸野が、企業側から金を受け取って、内部告発者を消す手助けをしていた、ということですか」 「まだ断定はできませんが、可能性は高いと思います」
この発見は、猪飼にとって一つの符合を意味していた。オークション会場で猪飼が見た、懸野の落ち着き払った姿。あの熟練した所作は、単なる常連客のものではなく、五年前からこのシステムに深く関わってきた人間のものだったのかもしれない。 だが、猪飼の調査は、そこで終わらなかった。
数日後、猪飼は桑原に、もう一度接触を試みた。今回は単刀直入に、五年前の葉山蓮という名前を出した。 桑原の表情が、初めて明確に揺れた。 「――その名前を、どこで」 「知っているんですね」 桑原はすぐには答えなかった。長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「わたしがお答えできることは、多くありません」 「一つだけ、教えてください。当時、葉山さんの居場所に関する情報が、誰かからオークション側に流れたということはありましたか」 桑原の視線が、一瞬、床に落ちた。その一瞬の逡巡を、猪飼は見逃さなかった。
「――記録が残っているかどうかは、わかりません」 明確な否定ではなかった。それどころか、猪飼にはその返答が、ほとんど肯定に近いものに聞こえた。
「あなたは、その頃からここにいたんですか」 桑原は、猪飼の問いには答えず、代わりに静かに視線を上げた。 「猪飼さん。これ以上は、わたしの口からは言えません。もし本当に知りたいのなら、稲本さんに聞いてください。あるいは――」 桑原はそこで言葉を切った。
「あるいは?」 「いえ。今は、まだ」 桑原はそう言って、それ以上は語らなかった。だが、猪飼の中では、すでに一つの確信に近い疑念が芽生えていた。
五年前、葉山蓮の居場所を売った誰かが、このシステムの内側にいる。
そして、その誰かは、目の前にいる桑原香蓮と、決して無関係ではない。 猪飼はその夜、初めて、桑原に対する見方が変わっていくのを感じていた。彼女は単なる案内役ではない。
もっと深く、この物語の核心に関わっている人間なのだ。




