第二十章 起点
猪飼は、五年前の取材ノートを、改めて一ページ目から読み返すことにした。
古いノートの最初のページには、企業名と、粉飾決算の疑いについての簡単なメモが書かれている。猪飼の記憶では、これは自分が独自に嗅ぎつけた情報のはずだった。だが、そのメモの余白に、猪飼は見覚えのない小さな走り書きを見つけた。
匿名タレコミ、電話。09/14。
猪飼は眉をひそめた。記憶にはない。だが、間違いなく自分の筆跡だった。
猪飼は当時使っていた携帯電話の通話記録を、なんとか思い出そうと試みたが、五年も前の記録は、すでに端末ごと手元にない。ただ、ノートに残されたこの一行が、猪飼の記憶を静かに揺さぶった。
――自分は、本当に自分の意志で、あの企業に目をつけたのだろうか。
猪飼は当時の同僚に、片っ端から連絡を取り始めた。多くはすでに転職しており、記憶も曖昧だったが、その中の一人、当時デスクを務めていた年配の記者が、こんなことを口にした。
「お前、あの頃、急に張り切りだしたよな。それまで別の案件を追ってたのに、急に方向転換した」
「きっかけは、覚えていますか」
「さあな。ただ、確か……誰かからの情報提供があったとか、お前自身がそう言っていた気がする。詳しくは聞かなかったが」
猪飼は、その「誰か」の正体を、五年経った今、初めて突き止めようとしていた。だが、記憶はあまりにも薄く、手がかりはほとんど残っていなかった。
ただ一つ、猪飼の中に確かな違和感として残っていたのは、情報源――当時失踪した内部告発者――が最後に口にした、あの一言だった。
「猪飼さん、これは俺から持ちかけた話じゃないんです。誰かに、あなたに会えと言われた気がするんですよ」
もし、あの言葉が真実だったとすれば、猪飼が「自分から嗅ぎつけた」と信じていた企業への取材そのものが、誰かによって周到に準備された道筋だった可能性がある。
猪飼は、記憶の中の順序を、もう一度組み立て直してみた。
匿名の電話。方向転換。情報源との接触。証拠固め。記事の準備。そして――情報源の失踪。
もしこの一連の流れすべてが、猪飼自身の意志ではなく、何者かによって最初から敷かれたレールの上を歩かされていたのだとすれば。
猪飼は自室の壁に貼った、五年前からの時系列表を、しばらく無言で見つめていた。
その表の最初に書かれた日付――09/14――の横に、猪飼は新しい付箋を貼った。
誰が、この日、電話をかけてきたのか。
答えの出ない問いを、また一つ、猪飼は抱え込むことになった。だが今度は、この問いこそが、五年前の事件と、目の前の地下オークションを結ぶ、最も重要な糸口になるという予感があった。




