第六話 口をきかない、娘さん 改訂版
第六話 口をきかない、娘さん
「娘が、口をきかないんです」
男は、椅子に腰を下ろすなり、そう言った。
五十代の半ば。仕立てのよいスーツに、きちんと結ばれたネクタイ。会社では、それなりの役職に就いているらしい。
ババアは、男の顔を見た。
「死んだのかい」
「えっ?」
「娘さんだよ。口をきかないっていうから、死んだのかと思ったんだ」
「生きてますよ!」
「だったら、いいじゃないか」
「よくありません!」
男は声を荒らげた。
ババアは、机の上の料金を引き寄せた。
「それで、何を占ってほしいんだい」
「娘が、いつになったら私と話してくれるようになるのか。それを知りたいんです」
「いつ、ねえ」
ババアは水晶玉を覗き込んだ。
「明日かもしれないし、一生ないかもしれないね」
「先生!」
「うるさいねえ。未来がわかるなら、あたしは今ごろ大金持ちだよ」
男は、口をへの字に曲げた。
「妻に勧められて来たんです。こういうところに来るのは、正直、抵抗がありましたが」
「じゃあ、帰んな」
「……」
「帰らないのかい」
「せっかく来たんですから」
「そうかい。じゃあ、話しな」
男は、ネクタイの結び目を少し緩めた。
「娘は大学生です。以前は、学校のことも、友達のことも、いろいろ話してくれました。それが、ある日を境に、私を避けるようになって」
「ある日って、いつだい」
「春ごろですかね」
「何があったんだい」
「それが、よくわからないんです」
ババアは男を見た。
「本当に?」
男は眉をひそめた。
「どういう意味ですか」
「何か思い当たることがある顔をしてるよ」
「……まあ、少しは」
「少しねえ。便利な言葉だよ」
男は、しばらく黙っていた。
「娘が、大学を辞めたいと言ったんです」
「ほう」
「私は反対しました。せっかく入った大学です。学費だって安くない。卒業してから考えればいいと、そう言ったんです」
「それで?」
「娘は、もう何も言わなくなりました」
「そりゃ、話が早くてよかったじゃないか」
「何がです!」
「辞めたいって言った。あんたが反対した。娘は黙った。話は終わったんだろ」
「そういう問題じゃありません!」
「じゃあ、どういう問題なんだい」
男は言葉に詰まった。
ババアは、急かさなかった。
やがて男は、小さく息を吐いた。
「娘の将来が心配なんです。大学を辞めて、どうするつもりなのか。きちんと考えているのか。親として、心配するのは当然でしょう」
「そうだねえ」
男は、少しだけ表情を緩めた。
「わかっていただけますか」
「心配するのは勝手だよ」
「……はい?」
「心配するのは、あんたの自由だって言ってんだよ。娘がその心配を聞かなきゃいけないかどうかは、別の話だろ」
男の顔から、表情が消えた。
「私は、娘のためを思って……」
「それは、さっきも聞いたよ」
「親なら、そう思うものです」
「そうかい」
ババアは水晶玉を布で拭いた。
「で、あんたは娘に、何をしてほしいんだい」
「大学を卒業してほしい。それから、きちんと就職して……」
「その先は?」
「その先?」
「娘が就職したら、あんたは何をしてほしいんだい」
「それは……自立して、幸せになってほしいですよ」
「幸せってのは、どういう状態だい」
男は、口を開きかけて、閉じた。
「普通に働いて、家庭を持って、安定した生活を送ることです」
「それが娘の幸せなのかい」
「一般的には、そうでしょう」
「一般的な娘を育ててるのかい。あんたは」
男は、黙り込んだ。
店の外から、車の走る音が聞こえた。
「先生。私は、間違ったことを言っているでしょうか」
ババアは、すぐには答えなかった。
「間違ってるかどうかを聞いて、どうするんだい」
「……え?」
「あたしが、あんたは正しいって言ったら、娘にそう言いに行くのかい。間違ってるって言ったら、謝るのかい」
男は、視線を落とした。
「私は、ただ……」
「ただ、何だい」
「娘と、普通に話がしたいんです」
ようやく出てきた言葉だった。
ババアは、男の顔を見た。
「何を話したいんだい」
「学校のこととか、友達のこととか。以前みたいに、何でも話してほしいんです」
「娘が話したいことじゃなくて?」
男は、答えなかった。
ババアは、机の引き出しから、小さな紙片を取り出した。
「ここに、娘に言いたいことを書いてみな」
「手紙ですか?」
「違うよ。あんたが娘に言いたいことだ。誰にも見せない。あたしにも見せなくていい」
男は、紙片と鉛筆を受け取った。
しばらくして、鉛筆が動き始めた。
大学を卒業してほしい。
将来をきちんと考えてほしい。
親の心配をわかってほしい。
男は三つ書いたところで、手を止めた。
「……先生、これでいいんでしょうか」
「知らないよ。あんたが書いたんだろ」
男は紙を見つめた。
「娘に、謝ったほうがいいんでしょうか」
「謝りたいのかい」
「……わかりません」
「じゃあ、今は謝らなくていいんじゃないかい」
男は顔を上げた。
「いいんですか?」
「誰が決めたんだい。今すぐ謝らなきゃいけないって」
男は、また紙を見た。
そして、三つの項目の下に、ゆっくりと書き加えた。
――お前が何を考えているのか、聞かせてほしい。
書き終えると、男は鉛筆を置いた。
「……これを、娘に伝えればいいんでしょうか」
「知らないよ」
「また、それですか」
「また、それだよ」
男は、苦笑した。
「先生は、本当に何も教えてくれないんですね」
「何度も言わせるんじゃないよ」
男は立ち上がった。
料金を払ったあと、戸口で振り返った。
「先生。娘が話してくれるようになるでしょうか」
ババアは、爪を眺めていた。
「さあね」
「……そうですか」
「ただね」
男が顔を上げた。
「娘が話さない間も、あんたが話を聞く準備くらいは、できるんじゃないかい」
男は、しばらくババアを見つめた。
それから、深く頭を下げるでもなく、礼を言うでもなく、静かに店を出ていった。
ババアは、閉まった戸を見ていた。
「親ってのは、面倒だねえ」
ぽつりと呟く。
自分の親のことを思い出したのか。それとも、かつて自分が親だったころのことか。
その答えを知る者は、店の中にはいなかった。
ババアは水晶玉を元の位置に戻した。
「さて、次の客は……」
入口の鈴が鳴った。
「先生、私、結婚できますか?」
若い女が、顔を覗かせた。
ババアは、にやりと笑った。
「さあね。まず、あんたの話を聞かせな」
内幸町の午後は、まだ終わらない。
第6話は、かなりカウンセリング寄りのコーチングです。
内容を、整理します。
◾️カウンセリング:
つらさや葛藤を受け止め、気持ちを整理し、理解を深めることを重視する。
◾️コーチング:
本人の考えや望みを引き出し、自分で選択し、行動することを支える。
実際には重なる部分もありますが、主な目的には違いがあります。
今回のババアは、
父親に「娘が話さない理由」を断定していません。
父親の心配を否定せず、質問を重ねて、最後には本人が「娘の話を聞きたい」と言葉にするところまで進めています。
つまり、気持ちを整理するカウンセリング的な要素と、自分の望みを見つけるコーチング的な要素が、両方入っています。
そして、このババアは、コーチング専門家として名乗っているわけでも、技術を説明しているわけでもありません。
「娘と話したい」という客に、説教もせず、答えも与えず、質問を投げるだけ。
ババアの技術が万能の魔法ではない。
ババアは人の人生を変える魔女ではない。
ただ、相手が自分の人生について考え始めるような話し相手なんです。




