第五話 遺産について 改訂版
第五話 遺産について
「遺産のことで、占ってもらいたいんですけど」
男は、くたびれた紺色のスーツを着ていた。
年は四十代の半ば。ネクタイは緩み、目の下には薄い隈がある。疲れているのか、それとも、怒るのを我慢しているのか。
ババアは男の顔を見て、それから差し出された料金を受け取った。
「遺産ねえ。いくらあるんだい」
「えっ?」
「親の遺産だろ。いくらあるんだって聞いてんだよ」
「それは……預金と、実家の土地と建物で、まあ、それなりに」
「それなりってのは、いくらだい」
「正確な金額は、まだわかりません」
「じゃあ、何を占えってんだい」
男は口をつぐんだ。
ババアは机の上の小さな水晶玉を、指先でくるりと回した。
「兄弟は?」
「兄が一人います」
「仲はいいのかい」
「普通です」
「便利な言葉だねえ、普通ってのは」
男の眉が動いた。
「兄とは、昔から折り合いが悪くて。でも、親の葬式も済みましたし、これからは揉めずに済ませたいと思っているんです」
「へえ。あんた、ずいぶん立派なことを言うじゃないか」
「立派って……」
「揉めたくない。公平に分けたい。兄弟仲良く。ご立派なもんだよ。で?」
「で、とは?」
「本当は、どうしたいんだい」
男は、ババアを見た。
「ですから、公平に……」
「公平ってのは、あんたの兄貴と半分こにすることかい。それとも、兄貴が今までやったことと、あんたが今までやったことを、ぜんぶ数え上げて分けることかい」
男の口元が、わずかに歪んだ。
「兄は、母の面倒をほとんど見ませんでした」
「ほう」
「母が病気になってから、病院に連れていったのも、買い物をしたのも、私です。仕事を早退して、何度も実家に通いました。兄は、たまに電話をかけてくるだけで」
「金は?」
「え?」
「兄貴は、金を出さなかったのかい」
「多少は出しました。でも、実際に動いていたのは私です」
「そうかい」
ババアは、うなずきもしなかった。
「それで、あんたは何が欲しいんだい」
「……だから、公平に分けたいんです」
「まだ言うかい」
男は黙った。
店の外を、誰かが足早に通り過ぎた。
「母には、感謝しています。最後まで、私を頼りにしてくれました。だから、できることは全部やりました」
「そりゃ、よかったね」
「でも……」
男は、そこで言葉を切った。
ババアは待った。
「兄は、母が亡くなった途端、土地を売ろうと言い出したんです。思い出の詰まった家なのに。母が大切にしていた庭もあるのに」
「売ったら、いくらになるんだい」
「……それなりに」
「また、それなりかい」
男は苦笑した。
「かなりの金額になると思います」
「そりゃ、兄貴も売りたがるわけだ」
「そういう問題じゃないでしょう!」
思わず声を荒らげた男を、ババアはじっと見た。
「そうかい。じゃあ、どういう問題なんだい」
男は、言い返そうとして、やめた。
「……母が、かわいそうなんです」
「母親は、死んだんだろ」
男の顔が強張った。
「そんな言い方はないでしょう」
「死んだ人間は、もう家に住まないよ。庭の草むしりもしない。あんたが家を残したって、母親が戻ってくるわけじゃない」
「……」
「それでも残したいのかい」
男は、机の木目を見つめた。
「残したいです」
「なんで」
「母が、あの家を好きだったからです」
「母親が好きだった家を、あんたも好きなのかい」
男は、すぐには答えなかった。
やがて、小さく首を振った。
「……私は、あの家が嫌いでした」
ババアは、初めて少しだけ目を細めた。
「ほう」
「子供のころから、何をするにも母の顔色をうかがっていました。母が喜ぶことをする。母が望む学校に行く。母が安心する会社に入る。結婚だって……」
男は、そこで口を閉じた。
「母親が死んでも、まだ母親の顔色をうかがってるのかい」
男は、何も答えなかった。
「で、兄貴は?」
「兄は、好き勝手に生きてきました。母とは何度も喧嘩して、家を出て。それでも、最後には顔を見せに来ていました」
「ふうん」
「兄がうらやましかったのかもしれません」
ババアは、水晶玉を手のひらで転がした。
「じゃあ、兄貴に遺産を多くやりな」
「は?」
「好き勝手に生きてきた兄貴に、全部くれてやりな。あんたは家を守る。兄貴は金をもらう。それで丸く収まるじゃないか」
「そんなこと、できるわけがないでしょう!」
「なんだい。自分で決めたくせに」
「私は、そんなことを決めていません!」
「じゃあ、決めなきゃいい」
男は、ぽかんと口を開けた。
「……先生は、いったい何を言っているんですか」
「占いだよ」
「どこがですか!」
「当たってるかい?」
男は言葉を失った。
ババアは、料金の横に置いてあった紙を引き寄せ、鉛筆を転がした。
「家を残した場合。売った場合。兄貴と半分にした場合。あんたが買い取った場合。ほかにもあるなら書きな」
「そんなの、占いじゃないでしょう」
「嫌なら帰んな」
男は紙を見た。
「……書けば、答えが出るんですか」
「出るかもしれないし、出ないかもしれないね」
「先生は、何も教えてくれないんですね」
「教えてほしけりゃ、学校へ行きな」
男は、とうとう笑ってしまった。
ほんの少しだけ、肩の力が抜けたようだった。
彼は紙を受け取り、しばらく考えてから、四つの選択肢を書いた。
それから、紙の端に、小さな文字を付け加えた。
――母のためではなく、自分がどうしたいか。
ババアは、それをちらりと見た。
「字が小さいねえ。もっと大きく書きな」
男は、今度は少し大きな字で書き直した。
「……ありがとうございました」
「まだ何も決まってないよ」
「はい。でも、何を考えればいいのかは、わかった気がします」
「そうかい。じゃあ、料金を追加しな」
男は目を丸くした。
「えっ?」
「人生の重大問題だろ。長くかかったんだ。延長料金だよ」
「……先生、本当にひどいですね」
「今ごろ気づいたのかい」
男は苦笑しながら、追加の料金を置いて帰っていった。
店の中が静かになった。
ババアは、男が残していった紙を見た。
母のためではなく、自分がどうしたいか。
「……馬鹿だねえ」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
机の引き出しに手を伸ばしかけて、やめた。
代わりに、次の客のために水晶玉を磨き始めた。
「さて、次はどんな馬鹿が来るんだい」
内幸町の午後は、まだ長かった。
【読者に伝えたい、ババアのコーチング テクニック】
本エピソードでは、コーチングの技術ではなく、相談者とのやり取りそのものに、コーチングの要素があります。
まずは、
・答えを与えない質問――「あんたは、どうしたいんだい?」
・オープンクエスチョン――「何があったんだい?」と、相手が自由に話せる問いを投げる。
・視点の転換――「それは相手の問題かい。それとも、あんたが相手に期待していることかい?」
・選択肢を広げる――二者択一だと思い込んでいる相談者に、第三、第四の道を考えさせる。
・本人の言葉を返す――相談者が口にした言葉の矛盾や、本音が表れた瞬間を逃さない。
・決定権を本人に戻す――最後まで、ババアが人生の答えを決めてやらない。
・そして、忘れてはいけないのが、質問をすれば何でも解決するわけではないということです。
・相手が話したくないことを無理に聞き出さない。
・ひとつの仕草だけで人間を決めつけない。沈黙している人には、考える時間を与える。
では、ババア自身は?
本人は、自分の技術を説明しません。
「どうして、そんな質問をするんですか?」
「うるさいねえ。質問に質問で返すんじゃないよ」
「先生が先に質問したんでしょう!」
「だったら、答えな」
相談者は、質問の意味に気づいていく。
それは、素晴らしい、コーチングのテクニックです。




