第四話 辞めるべきか、辞めざるべきか
第四話 辞めるべきか、辞めざるべきか
内幸町の片隅に、その店はある。
看板には、赤い文字で「占い」。
その下に、これまた赤い文字で「大当たり!」。
大当たりした客がいるのかどうかは、定かではない。
少なくとも、店主の占いババアは、これまで一度も返金したことがない。
「返金保証なんて、どこの占いにあるんだい!」
それが彼女の言い分だった。
午後二時。
スーツ姿の男が、店に入ってきた。
三十代後半。ネクタイは少し緩み、顔には疲労がにじんでいる。
「先生、仕事運を占っていただきたいんです」
「いくらだい?」
男は料金を払い、椅子に座った。
「会社を辞めようかと思っているんです」
「辞めりゃいいじゃないか」
男は、目を丸くした。
「えっ?」
「辞めたいんだろ?」
「いや、でも、辞めていいものかどうか……」
「なんだい。辞める許可を、あたしにもらいに来たのかい?」
「そういうわけではありません」
「じゃあ、何だい?」
男は、口をつぐんだ。
ババアは、机の上の水晶玉を布で拭いた。
「会社が嫌なのかい?」
「はい」
「仕事が嫌なのかい?」
「……それもあります」
「上司が嫌なのかい?」
「はい!」
男は、思わず身を乗り出した。
ババアは、にやりと笑った。
「そいつはよかった」
「何がですか?」
「嫌なものが、はっきりしてるじゃないか」
「でも、転職して失敗したら……」
「失敗って、何だい?」
「次の会社でも、うまくいかなかったら困ります」
「ほう。今の会社では、うまくいってるのかい?」
男は、黙った。
「お前さん、今の会社に残ったら、うまくいくのかい?」
「……わかりません」
「転職したら、うまくいくのかい?」
「それも、わかりません」
「じゃあ、何がわかってるんだい?」
男は、考え込んだ。
「……今の会社にいるのが、つらいということです」
「そうかい」
ババアは、それ以上、何も言わなかった。
男は拍子抜けしたように、彼女を見た。
「先生、何かアドバイスをいただけませんか?」
「嫌だね」
「えっ?」
「お前さん、さっきから、あたしに決めてもらおうとしてるじゃないか」
「そんなつもりは……」
「じゃあ、聞くよ」
ババアは、男をまっすぐ見た。
「会社を辞めたら、何が困るんだい?」
「収入がなくなります」
「ほかには?」
「家族がいますから、生活費も必要です」
「ほかには?」
「転職先が見つからないかもしれません」
「ほかには?」
男は、腕を組んだ。
「……自分が、逃げたような気がするんです」
ババアの手が止まった。
「逃げる?」
「はい。上司と合わないから辞めるなんて、社会人として情けない気がして」
「ほう」
「もう少し我慢すべきなのかもしれません」
ババアは、しばらく男を見ていた。
「お前さん、誰に認めてもらいたいんだい?」
男は、顔を上げた。
「……え?」
「会社に残れば、誰かが褒めてくれるのかい?」
「いえ、そういうわけでは……」
「辞めたら、誰かに怒られるのかい?」
「……わかりません」
「じゃあ、誰のために我慢してるんだい?」
男は、何も答えられなかった。
店の外から、車の走る音が聞こえた。
しばらくして、男が口を開いた。
「先生。僕は、どうすればいいんでしょう」
ババアは、あくびをした。
「知らないよ」
「……」
「ただねえ」
男は、顔を上げた。
「辞めるか、辞めないか。その二つしか選択肢がないと思ってるなら、ずいぶん窮屈な人生だねえ」
「ほかに、何かあるんですか?」
「さあねえ。あたしに聞くんじゃないよ」
男は、困ったように笑った。
「先生、意地悪ですね」
「今ごろ気づいたのかい?」
ババアは、机の引き出しから紙と鉛筆を取り出した。
「書きな」
「何をですか?」
「今の会社に残る理由。辞める理由。思いつくものを、全部だよ」
男は、紙を受け取った。
「それを書いて、どうするんですか?」
「知らないよ。書いてから考えな」
男は、しばらく紙を見つめていた。
それから、鉛筆を動かし始めた。
残る理由。
収入が安定している。
家族を養える。
仕事の内容には、好きな部分もある。
長年付き合ってきた同僚がいる。
辞める理由。
上司との関係がつらい。
休日も仕事のことを考えてしまう。
以前は好きだった仕事まで、嫌いになりかけている。
このままでは、自分が壊れてしまいそうだ。
書き終えた男は、紙を見つめた。
「……辞める理由ばかり考えていました」
「そうかい」
「でも、残りたい理由も、あるんですね」
「そりゃ、よかったねえ」
男は、顔を上げた。
「先生。僕、もう少し考えてみます」
「勝手にしな」
「転職先を探しながら、今の仕事の負担を減らせないか、相談してみようと思います」
「ほう」
「それでも駄目なら、辞めることも考えます」
ババアは、鼻を鳴らした。
「最初から、そうやって考えりゃよかったんだよ」
男は、立ち上がった。
「ありがとうございました」
「礼なんかいらないよ。料金はもらったからね」
男は笑いながら、店を出ていった。
扉が閉まる。
ババアは、男が書いた紙を見た。
男は、忘れていったらしい。
ババアは、それを手に取った。
「……家族がいる、か」
紙を机に置き、引き出しを開けた。
そこには、古い写真が一枚、しまってある。
若い女と、隣に立つ男。
ババアは、写真を見た。
「家族がいたって、うまくいくとは限らないんだよ」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。
それから、紙を四つに折り、男の忘れ物入れにしまった。
電話が鳴った。
「はい、占いだよ!」
受話器の向こうから、若い女の声がした。
「先生、転職するべきか、占ってほしいんです」
ババアは、にやりと笑った。
「いいよ。まず聞くけどね」
女が息をのむ気配がした。
「お前さん、転職したいのかい?」
「はい」
「じゃあ、なんで占いに来るんだい?」
電話の向こうが、静かになった。
ババアは、受話器を肩に挟み、料金表を直した。
今日も、内幸町の片隅で、占いババアは客を待っている。
未来を教える気は、さらさらない。
人生の責任を負う気も、さらさらない。
それでも客は、やって来る。
なぜなら、ここでは誰も、答えを教えてくれないからだ。
――このクソババア、今日も絶好調である。




