第三十話 ハロウィンの、クルエラ・ド・ヴィル
十月三十一日。
内幸町の小さな占いの店で、内海ヨシエはタブレットを眺めていた。
七十八歳。
占い師としての腕には自信がある。易経も西洋占星術も扱うが、何より得意なのは、相談者の顔を見て、口に出せない本音を見抜くことだった。
「まったく、星のせいにすりゃ何でも許されると思ってるんだからねえ」
今日最後の客を送り出し、ヨシエは店じまいの支度を始めた。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
息子の達也からだった。
『母さん、今日ちょっといいかな。花音と悠真が、どうしても会いたいって言ってるんだ』
ヨシエは眉を上げた。
達也には、妻の美和と、十二歳の花音、八歳の悠真がいる。
この前、達也が店を訪ねてきたとき、今度は家族を連れてくると言っていた。
その約束が、今日になったらしい。
『いいけど、何時だい?』
『夕方には行けると思う。それと、今日はハロウィンだからって、子どもたちが何か企んでるみたいで』
『企んでる?』
『うん。母さんに仮装してほしいんだって』
ヨシエは、しばらく黙った。
「……仮装?」
電話の向こうで、達也が笑いをこらえている。
『じゃあ、あとでね』
通話が切れた。
ヨシエはスマートフォンを置き、腕を組んだ。
「七十八にもなって、何をやらせる気だい」
そう言いながら、口元には笑みが浮かんでいた。
*
夕方。
達也たちがヨシエの家を訪ねてきた。
玄関を開けるなり、花音と悠真が飛び込んできた。
「おばあちゃん!」
「おばあちゃん、ハッピーハロウィン!」
「はいはい、わかったよ。そんなに大きな声を出さなくても、あたしゃ耳は聞こえてるんだから」
ヨシエは二人を迎え入れた。
花音は十二歳らしく、少しお姉さんぶっている。悠真は、まだまだ好奇心の塊だ。
二人とも、黄色いつなぎにゴーグルという格好をしていた。
「……あんたたち、何だい、その格好は?」
「ミニオンズ!」
悠真が胸を張った。
「ぼく、これがいいって言ったの!」
「へえ。黄色いのが好きなのかい」
「うん!」
花音が、待ちきれない様子で口を挟んだ。
「それでね、おばあちゃんにも仮装してほしいの!」
「何にだい?」
二人は顔を見合わせた。
「クルエラ!」
ヨシエの眉が上がった。
クルエラ・ド・ヴィル。
ダルメシアンの仔犬の毛皮でコートを作ろうとする、あの有名な悪女である。
「……あんたたち、あたしに何をさせる気だい?」
「絶対似合うよ!」
花音が言った。
「おばあちゃん、かっこいいもん!」
悠真も大きくうなずいた。
「それに、クルエラって悪役だけど、すごく目立つでしょ?」
ヨシエは、花音をじっと見た。
「お前さん、なかなか話がわかるじゃないか」
「えっ、いいの?」
「いいも悪いも、そこまで言われて断ったら、こっちの負けだろ」
ヨシエは立ち上がった。
「ちょっと待ってな」
*
しばらくして、居間の扉が開いた。
現れたのは、黒いロングコートに身を包んだ女だった。
髪は真ん中から左右に分かれ、片側は黒、もう片側は白。
唇には深紅の口紅。
肘まである真っ赤なロンググローブ。
そして、指先には長いタバコホルダー。
もちろん、火はついていない。
ヨシエはそれを優雅に持ち上げ、顎を少し上げた。
「どうだい?」
花音は口を開けたまま、しばらく固まっていた。
悠真は、ゴーグルをずらしてヨシエを見上げた。
「……おばあちゃん?」
「ほかに誰がいるんだい」
「すごい!」
花音が叫んだ。
「本物みたい!」
「本物だったら、今ごろ警察が来てるよ」
ヨシエは、赤い手袋の指先で軽く髪を整えた。
「まったく。仮装ってのは、半端にやるから恥ずかしいんだ。やるなら、徹底的にやるもんさ」
その姿を見て、達也は目を丸くした。
「母さん……」
「何だい?」
「いや、その……似合ってるよ」
「当たり前だろ」
ヨシエは鼻を鳴らした。
「昔から、舞台に立つなら中途半端は嫌いでね」
達也は、母の言葉に思わず笑った。
かつて舞台に立っていた頃の母を、彼はほとんど知らない。
けれど、目の前の母には、年齢など関係のない華やかさがあった。
背筋の伸びた立ち姿。
人を圧倒する目線。
そして、ひと言で場の空気を変えてしまう存在感。
花音と悠真は、すっかりヨシエのとりこになっていた。
「おばあちゃん、一緒に写真撮ろう!」
「いいよ。ただし、あたしを真ん中にしな」
「うん!」
ミニオンズ二人を両脇に従え、クルエラが堂々と中央に立つ。
達也がスマートフォンを構えた。
「はい、撮るよ」
その瞬間、悠真が叫んだ。
「おばあちゃん、犬の毛皮でコート作るの?」
ヨシエの笑顔が止まった。
「……何だって?」
「だって、クルエラって、仔犬の毛皮でコート作ろうとするんでしょ?」
「作るわけないだろ!」
ヨシエの声が居間に響いた。
「七十八にもなって、警察の世話になりたくないよ!」
花音が吹き出した。
達也も、美和も、とうとう笑い出した。
ヨシエは赤い手袋を腰に当て、孫をにらんだ。
「だいたいね、悠真。物語と現実の区別ぐらいつけな!」
「はーい!」
返事だけは立派だった。
*
せっかくだからと、四人は近所を少し歩くことにした。
ヨシエはもちろん、クルエラの格好のままだ。
黒いロングコートが風になびき、赤い手袋が街灯の下で鮮やかに浮かび上がる。
左右にミニオンズ。
何とも奇妙な一行だった。
すれ違った親子が、思わず振り返った。
小さな子どもが、母親の後ろに隠れる。
その先から、犬を連れた男性が歩いてきた。
犬はヨシエの姿を見るなり、ぴたりと足を止めた。
そして、くるりと向きを変えた。
飼い主が慌ててリードを引く。
「こら、どうしたんだ?」
犬は、どうしてもヨシエのほうへ行こうとしなかった。
ヨシエは長いタバコホルダーを持ち上げた。
「失礼だねえ。あたしゃ、犬さらいじゃないよ」
男性は、ヨシエを見て、犬を見て、もう一度ヨシエを見た。
「あ、ああ……そうですよね」
そう言いながら、犬を連れて足早に去っていった。
花音が笑いをこらえきれず、悠真はゴーグルを押さえながら跳ね回った。
「おばあちゃん、犬に怖がられてる!」
「怖がられてるんじゃないよ。あの犬は、見る目があるんだ」
「どういうこと?」
「本物の悪女を見抜いたってことさ」
「ええーっ!」
二人の笑い声が、夕暮れの街に響いた。
ヨシエは、わざとゆっくり歩いた。
赤い手袋をした手を優雅に振り、長いタバコホルダーを掲げる。
通りすがりの人々が振り返る。
中には、思わず道を譲る人までいた。
「おばあちゃん、すごいね!」
花音が言った。
「何がだい?」
「みんな、見てる!」
「そりゃそうさ。こんな格好をして、誰にも見られなかったら、そのほうが困るだろ」
ヨシエは、ふっと笑った。
*
帰宅すると、美和が用意していた菓子をテーブルに並べた。
「お義母さん、本当にお似合いですね」
「そうかい?」
「ええ。なんだか、映画から出てきたみたいです」
「映画ねえ。あたしが出るなら、もっといい役をもらいたいもんだけどね」
「クルエラより、いい役ですか?」
美和が尋ねる。
ヨシエは少し考えた。
「そうだねえ。最後に全部ひっくり返す役がいいね」
「おばあちゃん、それ、悪役じゃないの?」
花音が笑った。
「悪役だって、最後まで見なきゃわからないだろ」
ヨシエは、ミニオンズ姿の孫たちを見た。
黄色いつなぎにゴーグル。
さっきまで街を歩いていた二人が、今はテーブルの前で菓子を選んでいる。
「ほら、食べな。せっかく用意したんだろ」
「おばあちゃんも!」
「いいよ。あたしは甘いものばかり食べてられないからね」
そう言いながら、ヨシエは小さな菓子をひとつ取った。
悠真が、すかさず尋ねた。
「おばあちゃん、来年も仮装してくれる?」
「来年?」
ヨシエは菓子を口に入れ、ゆっくり噛んだ。
「来年のことは、来年の運勢を見てからだね」
「えーっ!」
「何だい。不満かい?」
「ううん! 来年もクルエラがいい!」
ヨシエは、長いタバコホルダーをテーブルに置いた。
「同じ役ばかりじゃ、芸がないだろ」
元タカラジェンヌの血が、そう簡単に騒ぎを収めるはずもなかった。
花音と悠真は、来年の仮装を想像し始めた。
達也は、そんな二人と母を眺めていた。
母と再会したとき、いつか家族を連れてこようと思った。
その約束が、こんな形で実現するとは思っていなかった。
けれど、母は母だった。
口は悪い。
人を食ったようなことも言う。
それでも、子どもたちの頼みを聞いて、ここまで本気になってくれる。
達也は、そっとスマートフォンを手に取った。
さっき撮った写真には、クルエラのヨシエと、両脇のミニオンズが写っている。
赤い手袋。
白黒の髪。
堂々とした笑顔。
その写真を、達也は家族のアルバムに保存した。
来年も、再来年も。
子どもたちが大きくなってからも、きっとこの日のことを思い出すだろう。
内幸町のクルエラ。
仔犬の毛皮を狙うどころか、孫たちにお菓子を配る、七十八歳の悪女。
ただし、本人にその自覚はない。
「さて、あんたたち。そろそろ着替えな。いつまでも黄色いままじゃ、落ち着かないだろ」
「黄色いままって何?」
「ミニオンズだろ!」
ヨシエは笑った。
今夜ばかりは、星の配置も運勢も関係ない。
赤い手袋の悪女と、黄色い小さな手下たち。
内幸町のハロウィンは、まだまだ賑やかだった。




