第二十九話 思いがけない、再会
占い師として、長年この仕事を続けている。
易経を使った鑑定は、客の話を聞くところから始まる。相談の内容を整理し、問いを定め、筮竹を振る。
出てきた卦を読み解くのは、そのあとだ。
今日も、仕事の相談や家庭の悩みを聞いた。
人間、悩みの種は尽きないものだ。
「まったく、みんなよく悩むねえ」
ヨシエは、ひとりごとのようにつぶやいた。
そのとき、店の入口で控えめなノックがした。
「どうぞ」
入ってきたのは、四十代後半くらいの男だった。
身なりはきちんとしている。どこか緊張した様子で、店内を見回している。
「こちらで、占いをお願いできますか」
「もちろんだよ。そこに座りな」
男は椅子に腰を下ろした。
ヨシエは、いつものように尋ねた。
「お名前は?」
「奈良岡達也です」
「生年月日は?」
男が答えた。
ヨシエは、その名前と生年月日を聞いて、ほんの一瞬、手を止めた。
奈良岡。
達也。
記憶の奥にしまい込んでいた名前が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
だが、ヨシエは表情を変えなかった。
「相談したいことは何だい?」
「これからの仕事のことです」
「仕事ねえ。今の仕事を続けるべきか、それとも何か新しいことを始めるべきか。そういうことかい?」
「はい」
「わかったよ。じゃあ、占ってみようかね」
ヨシエは筮竹を手に取った。
いつもと同じ手順で、卦を立てる。
男は黙って、その様子を見ていた。
ヨシエは出た卦を読み、男の話を聞きながら、ひとつずつ説明していった。
仕事の現状。迷いの原因。これから気をつけるべきこと。
鑑定は、いつもどおり進んだ。
ヨシエは最後まで、占い師として男に向き合った。
「まあ、焦ることはないね。今すぐ結論を出す必要はない。あんた自身が、何を大切にしたいのか、もう一度考えてみることだよ」
「ありがとうございます」
男は、深く頭を下げた。
ヨシエは、鑑定に使った資料を片づけた。
「ほかに聞きたいことはあるかい?」
男は、しばらく黙っていた。
そして、ヨシエの顔をじっと見た。
「……ボクの顔、覚えてませんか?」
ヨシエの手が止まった。
男は、もう一度言った。
「ボクの顔、覚えてませんか?」
ヨシエは、男の顔を見た。
目元に、幼い頃の面影が残っていた。
もちろん、すぐにわかったわけではない。
最後に会ったのは、ずいぶん昔のことだ。
小さかった子どもが、今では四十九歳の男になっている。
けれど、名前と生年月日を聞いたときから、心のどこかでは気づいていた。
「……達也かい?」
男の表情が変わった。
「はい」
ヨシエは、椅子の背にもたれた。
「そうかい。あんたが、達也かい」
それ以上、言葉が出てこなかった。
達也も、何も言わなかった。
店の外から、車の走る音が聞こえてくる。
ヨシエは、目の前の男を見つめた。
自分の息子だった。
小さかった達也が、こんなに大きくなっている。
「ずいぶん、立派になったじゃないか」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
達也は、少し笑った。
「母さんも、変わってないですね」
「何を言ってるんだい。七十八だよ。変わらないわけがないだろ」
「そうですね」
「まったく、口の減らないところは、昔と同じだねえ」
ヨシエは、いつもの調子で言った。
けれど、声は少しだけ柔らかかった。
*
しばらくして、達也が尋ねた。
「母さん、どうして占い師になったんですか?」
「いろいろあったんだよ。人生、思いどおりにはいかないもんさ」
「そうですか」
「それより、どうしてあたしの店がわかったんだい?」
達也は、少し姿勢を正した。
「母さんの名前をネットで検索したんです」
「内海ヨシエでかい?」
「はい。そうしたら、この店のホームページが見つかりました。写真も載っていたので、もしかしたらと思って」
「よく、あたしだとわかったねえ」
「最初は、確信があったわけじゃありません。でも、会ってみようと思ったんです」
「それで、わざわざ来たのかい?」
「はい」
達也は、少し間を置いてから続けた。
「母さんとの思い出は、いい思い出ばかりなんです」
ヨシエは黙って、息子の顔を見た。
「タマゴサンドを作ってくれたこと、覚えています。ゼリーも。エビ天も」
達也は、ひとつずつ思い出すように話した。
「どれも、おいしかったなあ」
「そんなことまで覚えているのかい?」
「覚えていますよ。母さんが作ってくれたものも、買ってきてくれたものも。食べたときのこと、今でも思い出せます」
ヨシエは、何も言わなかった。
「母さんは、優しかったです。ボクには、優しい思い出しかないんです」
達也は、照れたように笑った。
「だから、一度会いたかった。元気にしているのか、どんな暮らしをしているのか。それを知りたかったんです」
ヨシエは、目の前の息子を見つめた。
自分では、とうに忘れていたような小さな出来事だった。
タマゴサンドも、ゼリーも、エビ天も。
特別な料理ではない。
けれど、幼い達也にとっては、母親と過ごした大切な時間だったのだ。
「……そうかい」
ヨシエは、ようやくそれだけ答えた。
「そういうものを、覚えていてくれたんだねえ」
「はい」
「まったく。子どもってのは、妙なことを覚えているもんだ」
「妙なことじゃありませんよ」
「そうかい」
ヨシエは、少し笑った。
*
達也は、話題を変えるように言った。
「実は、今日は家族で東京に来ているんです」
「家族?」
「妻と子ども二人です」
ヨシエは、少し驚いた。
「何だい。あんた、結婚してたのかい」
「はい。妻は美和といいます。四十一歳です」
「そうかい」
「娘が花音。十二歳です。それから、息子の悠真が八歳」
ヨシエは、黙って聞いていた。
息子に妻がいる。
孫が二人いる。
自分の知らないところで、達也は家庭を築き、子どもを育てていた。
当たり前のことなのだろう。
けれど、ヨシエにとっては、初めて聞く話だった。
「今、どこにいるんだい?」
「近くのスターバックスで待っています。妻と子どもたちは、そっちで休んでもらっているんです」
「そうかい。三人で待ってるのか」
「はい。今日は、母さんに会うつもりで来たので」
ヨシエは、少しだけ視線を落とした。
「そうかい」
それから、顔を上げた。
「今度は、みんなで来な。あたしも、嫁さんと孫の顔を見てみたいからね」
達也は、うなずいた。
「そうします」
「それで、連絡先はどうするんだい?」
「LINEを交換しませんか」
「LINEかい。あたしだって、それくらい使えるよ」
「知ってます。お店の案内にも載っていましたから」
「そうかい。じゃあ、出しな」
二人はスマートフォンを取り出し、LINEを交換した。
画面に表示された達也の名前を、ヨシエはしばらく眺めていた。
「これで、連絡できるね」
「はい」
達也は立ち上がった。
「今日は、ありがとうございました」
「何を言ってるんだい。占いの料金は、ちゃんと払っておくれよ」
達也は笑いながら、料金を支払った。
「また連絡します」
「ああ。待ってるよ」
達也が店を出ていく。
ヨシエは、その背中を見送った。
店の中が、急に静かになったような気がした。
スマートフォンの画面には、達也の名前が残っている。
その下には、まだ何もない。
これから、少しずつ増えていくのだろう。
ヨシエは、スマートフォンを机の上に置いた。
「まったく……」
小さく息を吐く。
「知らないうちに、孫まで二人もいたのかい」
そう言って、ヨシエは笑った。
七十八歳。
思いがけない再会だった。




