第二十八話 街の再開発 【後編】
商店会の会合が終わったのは、午後四時を過ぎた頃だった。
渡部誠一は、椅子から立ち上がるのに少し時間がかかった。
九十五年続くとんかつ屋「勝成」。
自分の代で三代目になる。
店を継いだときには、まさか自分がこんな話を聞くことになるとは思ってもいなかった。
会合では、再開発事業者の担当者が、計画の概要を説明した。
老朽化した建物を取り壊し、新しい複合ビルを建設する。商業施設に加え、住宅やオフィスも入る予定だという。
説明は丁寧だった。
安全性、利便性、街の活性化。
どれも間違った話ではない。
けれど、そこに描かれていた完成予想図には、今の商店街の姿はなかった。
店ごとの看板も、長年使い込まれた軒先も、建物の柱も天井も床も、すべてなくなる。
新しいビルの一階に店を移すことができたとしても、それは今の勝成とは違う。
「家賃はどうなるんですか」
誰かが質問した。
「仮店舗の場所は確保されるんでしょうか」
別の店主が続けた。
「うちは厨房の設備が特殊なんです。新しい建物にそのまま入れるんですか」
質問は次々に出た。
商店街の店は、それぞれ事情が違う。
長年の常連客を相手に商売をしている店もあれば、店の構造そのものが仕事に関わっている店もある。
移転できるかどうかだけではない。
移転したあと、今までどおり商売ができるのか。
担当者は、ひとつひとつに答えていたが、まだ決まっていないことも多かった。
誠一は、資料を見つめたまま、ほとんど口を開かなかった。
会合が終わる頃、隣に座っていた八百屋の店主が声をかけた。
「渡部さん、どうする?」
「どうするって言われてもな」
誠一は苦笑した。
「まだ、何も決められないよ」
「そうだよな」
店主は、深く息を吐いた。
「うちだって、どうなるかわからん」
誠一はうなずいた。
誰もが困っている。
勝成だけの問題ではなかった。
*
家に帰ると、妻が台所にいた。
「お帰りなさい。会合、どうだった?」
誠一は上着を脱ぎ、居間の椅子に腰を下ろした。
「再開発の説明だったよ」
「そう。何か決まったの?」
「いや、まだだ」
誠一は、テーブルの上に資料を置いた。
しばらく黙ってから、妻に話し始めた。
建物を取り壊すこと。商店街全体が対象になること。新しいビルに店を移す案があること。そして、今の勝成の建物は残らないということ。
妻は、資料に目を落とした。
「この店も、なくなるのね」
「ああ」
「新しいビルに入ることはできないの?」
「できるかもしれない。でも、今の店じゃなくなる」
誠一は、店のことを思い浮かべた。
何度も塗り直した壁。長年使ってきた調理場。客席の柱。床についた細かな傷。
それらは、九十五年の間に積み重なってきたものだった。
新しい建物に移れば、店の名前は残せるかもしれない。
だが、店の記憶まで持っていくことはできない。
そのとき、三人の息子たちが帰ってきた。
「親父、どうしたんだよ。みんな揃って」
長男が尋ねた。
「ちょっと話がある」
誠一は、息子たちにも同じ説明をした。
三人は黙って聞いていた。
「店を継ぐ人間がいないことは、前からわかっていた。でも、長く勤めてくれている弟子が、継ぎたいと言ってくれている」
誠一は、そこで一度言葉を切った。
「それでも、今の場所がなくなる。新しいビルに入るとしても、今の勝成とは違う店になる」
次男が資料を手に取った。
「それは、もう決まってるの?」
「まだ全部が決まったわけじゃない。ただ、再開発の計画は進んでいる」
三男は、父親の顔を見た。
「親父は、どうしたいんだよ」
誠一はすぐには答えなかった。
どうしたいのか。
本当は、今のまま続けたい。
できることなら、弟子に店を渡して、自分は少しずつ仕事から離れていきたかった。
だが、場所がなくなる。
それをどうすることもできない。
「俺はな、できることなら残したいよ」
誠一は、ようやくそう言った。
「でも、もう、どうにもならないのかもしれない」
誰も何も言わなかった。
息子たちも、父親がどれほど店を大切にしてきたかは知っている。
ただ、三人とも店を継ぐつもりはなかった。
そのことを、今さら責める気にもなれなかった。
「親父、今日はもう休めよ」
長男が言った。
誠一は、うなずいた。
「そうだな」
それ以上、話を続ける気力はなかった。
*
翌日。
勝成の開店前、誠一は弟子たちを厨房に集めた。
いつもなら、仕込みの音や揚げ油の準備で忙しい時間だった。
その朝は、誰もが誠一の顔を見ていた。
「今日は、話がある」
誠一は、そう切り出した。
商店街の再開発計画について、会合で聞いたことを話した。
店の建物が取り壊されること。移転先については、まだ具体的なことが決まっていないこと。新しいビルに入る可能性があっても、今の店をそのまま残すことはできないこと。
弟子たちは黙って聞いていた。
その中の一人が、口を開いた。
「親方。前に話したこと、覚えてますか」
誠一は、その弟子を見た。
「店を継ぎたいって話か」
「はい」
「覚えてるよ」
弟子は、少しうつむいた。
「俺は、今でもその気持ちは変わってません」
「ありがとうな」
誠一は、短く答えた。
「お前がそう言ってくれたことは、本当にうれしかった」
「だったら……」
弟子が言いかけた。
誠一は、ゆっくり首を振った。
「でもな。店を継ぐっていうのは、名前だけの話じゃない。この建物も、厨房も、ここに来てくれるお客さんも、全部ひっくるめて勝成なんだ」
厨房の中に、沈黙が落ちた。
「新しい場所で店を続ける方法があるかもしれない。だが、それができるかどうかも、まだわからない」
「親方は、店を閉めるつもりなんですか」
別の弟子が尋ねた。
誠一は、すぐには答えなかった。
「まだ決めたわけじゃない」
そう言ったものの、自分でも、その言葉に力がないことはわかっていた。
「ただ、みんなには先に話しておきたかった。急に決まったから、明日から来なくていい、なんてことにはしたくない」
弟子たちは、それぞれに表情を曇らせた。
長く一緒に働いてきた仲間たちだった。
一緒に仕込みをし、一緒に客を迎え、忙しい日には声を掛け合ってきた。
その日々が、いつまで続けられるのか。
誰にもわからなかった。
「今日も、いつもどおり営業する」
誠一は言った。
「仕事は仕事だ。頼むぞ」
「はい」
弟子たちの返事が、厨房に響いた。
*
開店時間になった。
暖簾を出すと、いつものように常連客がやってきた。
「おはよう。今日も頼むよ」
「いらっしゃいませ」
誠一は、いつもどおり客を迎えた。
揚げ油の音がする。
パン粉の香りが広がる。
九十五年間、ここで続いてきた仕事だった。
けれど、誠一の頭から、昨日の会合の資料が離れなかった。
街が変わる。
店がなくなる。
人が集まる場所も、そこで交わされた会話も、建物と一緒に消えてしまう。
写真に残すことはできる。
看板を保存することもできるかもしれない。
だが、柱や天井や床に染み込んだ時間は、持ち出せない。
壊してしまった街の記憶は、取り戻せない。
誠一は、揚がったとんかつを皿に盛りつけた。
「お待たせしました」
今日も、勝成の営業は始まった。




