第三十一話 Lettre d’amour
午後三時。
内幸町の小さな占いの店で、内海ヨシエは筮竹を揃えていた。
七十八歳。
人の運勢を占う商売を長年続けてきたが、客の悩みは十人十色だ。
恋愛、仕事、金銭問題、家族のこと。
そして、ときには、これからの人生をどう生きるかという相談もある。
その日、店を訪れたのは、阿部詩子、六十五歳。
きちんとした身なりの女性だった。化粧も控えめで、姿勢もいい。ただ、笑顔の奥に、長いこと癒えない傷が見え隠れしていた。
「それで、今日は何を占ってほしいんだい?」
ヨシエが尋ねると、詩子は膝の上で両手を重ねた。
「実は……お店を開きたいと思っているんです」
「へえ。何の店だい?」
「そば粉のガレットのお店です」
「ガレット?」
ヨシエは眉を上げた。
「そば屋じゃなくて?」
「はい。フランス料理なんです。そば粉で作った生地を薄く焼いて、卵やチーズ、ハムなどを包んだり、野菜を添えたりしていただきます」
「ふうん。そば粉で洋食かい。面白いじゃないか」
ヨシエは腕を組んだ。
「で、何が問題なんだい?」
詩子の表情が曇った。
「息子たちに反対されているんです」
「息子?」
「二人います。二人とも、もういい年なんですけれど……私が店を開くことには、賛成してくれなくて」
「何て言われたんだい?」
詩子は少し間を置いて答えた。
「『店なんか、やるな』って」
「そりゃまた、ずいぶんはっきり言ったもんだね」
「心配してくれているのは、わかるんです。お店を始めるには、お金もかかりますし、簡単なことではありませんから」
「そうだね。家賃に設備に仕入れ。客が来なくても、毎月払わなきゃならないものがある。商売ってのは、夢だけじゃ食べていけないからね」
詩子はうなずいた。
「わかっているんです。でも……」
その先が続かなかった。
ヨシエは急かさずに待った。
やがて、詩子は小さな声で言った。
「主人が亡くなって、三年になります」
「そうかい」
「主人は慎二といいました。三年前に亡くなってから、ずっと心に穴があいたままなんです」
詩子は窓の外に目を向けた。
「何かをしていても、ふとしたときに思い出すんです。食事を作っていても、買い物をしていても。主人がいた頃は、こんなことを考えもしなかったのに」
「三年か……」
ヨシエは筮竹を置いた。
「三年たったら悲しくなくなる、なんて決まりはないからねえ」
詩子は、はっとしたようにヨシエを見た。
「私、いつまでもこんなことではいけないと思っているんです。でも、忘れたくないんです」
「誰が忘れろと言ったんだい?」
「え?」
「亡くなった人を忘れなきゃ、前へ進めないなんて、誰が決めたんだい。そんな決まりはないよ」
詩子は何も言わなかった。
ヨシエは続けた。
「思い出すことと、これから生きることは、別々にできるんだよ。あんたが笑ったからって、慎二さんがいなくなった事実が消えるわけじゃない。おいしいものを食べたからって、思い出が薄くなるわけでもない」
「……はい」
「それで、そのガレットってのは、どうして始めようと思ったんだい?」
詩子は、ようやく少し表情を和らげた。
「主人との初めてのデートで、食べたんです」
「へえ」
「カスレと、ガレット。それから、インゲン豆のサラダも。あの日のことは、今でもよく覚えています」
「カスレってのは?」
「白いんげん豆とお肉を煮込んだ、フランス南西部の郷土料理です。時間をかけて煮込むので、味がしっかりしていて……」
「なるほど。初デートから、ずいぶんしっかり食べたんだねえ」
詩子は思わず笑った。
「はい。主人も私も、食べることが好きでしたから」
「そりゃ結構。食べるのが好きな人間は、人生を楽しむのがうまいことが多い」
ヨシエは、そこで少し意地悪そうに目を細めた。
「ところで、あんたの料理はうまいのかい?」
詩子は驚いた顔をした。
「え?」
「店を開くっていうんだ。肝心なのは、そこだろう。思い出があるのはわかった。でも、客は思い出を食べに来るんじゃない。料理を食べに来るんだよ」
「……そうですね」
「だったら、一度食べさせておくれよ」
詩子は目を丸くした。
「私の料理を、ですか?」
「ほかに誰の料理があるんだい。占いだけで店が繁盛するなら、あたしだって蕎麦屋を始めてるよ」
詩子は今度こそ、声を立てて笑った。
ヨシエは満足そうにうなずいた。
「そうそう。笑えるじゃないか。じゃあ、今度、あんたの家へ行くよ。料理を食べてから、店のことを考えようじゃないか」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早いよ。まずいものを出したら、遠慮なく言うからね」
「はい。覚悟しておきます」
詩子の顔には、店に入ってきたときにはなかった明るさが、ほんの少し戻っていた。
*
数日後。
ヨシエは阿部家の玄関に立っていた。
「いらっしゃいませ。お待ちしていました」
詩子が迎えた。
「お邪魔するよ。ああ、そんなにかしこまらなくていいからね。あたしゃ、偉い先生でも何でもないんだ」
「でも、先生に料理を食べていただくと思うと、緊張してしまって」
「占いの先生はやめとくれ。料理の先生でもないんだからさ」
ヨシエは靴を脱ぎながら言った。
「さて、何が出てくるのかねえ」
食卓には、彩りのよい料理が並んでいた。
まずは、インゲン豆のサラダ。
柔らかくゆでたインゲン豆に、ほどよい酸味のドレッシングが絡んでいる。余計な飾りはないが、豆の食感がきちんと残っていた。
ヨシエはひと口食べ、黙ってもうひと口食べた。
「……うん」
「いかがでしょう?」
「うまいね」
詩子の顔がほころんだ。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは食べ終わってからにしな。まだ先があるんだろう?」
次に出てきたのは、カスレだった。
白いんげん豆と肉が、時間をかけて煮込まれている。深い色の煮汁から、肉と豆の旨味が伝わってきた。
ヨシエはスプーンを手に取った。
ひと口。
それから、もうひと口。
「これは、時間がかかるだろう?」
「はい。急いで作ると、味がまとまらないんです」
「だろうね。こういう料理は、手間を惜しんじゃいけない」
ヨシエは感心したようにうなずいた。
「慎二さんも、これを食べたのかい?」
「はい。初めてのデートのときに」
「そうかい。そりゃ、忘れられない味になるねえ」
詩子は静かにうなずいた。
それから、ガレットが運ばれてきた。
そば粉の生地は香ばしく焼かれ、縁は薄くぱりりとしている。中央には卵とチーズ、ハム。添えられた野菜も、料理全体を重くしすぎないように整えられていた。
ヨシエはナイフとフォークを手にした。
生地を切り、具材と一緒に口へ運ぶ。
しばらく、何も言わなかった。
詩子は、息を詰めるようにして見つめていた。
やがてヨシエは、フォークを置いた。
「詩子さん」
「はい」
「うまいよ。これは、ちゃんとうまい」
詩子の肩から、力が抜けた。
「よかった……」
「ただし」
「はい?」
「うまけりゃ店が成功する、ってもんでもない」
詩子は表情を引き締めた。
「はい」
「日本じゃ、ガレットを知らない人もいるだろう。そば粉で作った料理だと言っても、蕎麦屋のかけそばを想像する人もいる。まず、食べてもらうところから始めなきゃならない」
「そうですよね……」
「それに、店を借りれば家賃がかかる。厨房の設備もいる。客が来るかどうかわからないうちから、大きな金を使うのは危ないね」
詩子はうつむいた。
やはり、息子たちの言うとおりなのだろうか。
そんな思いが、胸をよぎった。
だが、ヨシエは、そこで話を終わらせなかった。
「ところで、詩子さん」
「はい」
「あんた、料理を教えるのは好きかい?」
詩子は顔を上げた。
「料理を、教える?」
「ああ。人に作り方を教えたことはあるのかい?」
「友人に教えたことはあります。家に来てもらって、一緒に作ったり……」
「それで、評判は?」
「皆さん、喜んでくださいました」
「だったら、話は早い」
ヨシエは、テーブルに置かれたガレットを指さした。
「いきなり店を開かなくてもいいじゃないか。まずは、ここで料理教室を始めるんだよ」
「自宅で、ですか?」
「そうさ。最初から大勢を集める必要はない。少人数で、ガレットの作り方を教える。カスレだって、教えられるだろう?」
「はい。でも……」
「店を借りる金も、店員を雇う金も、最初は要らない。もちろん、食材や道具の費用はかかるけどね。小さく始めて、評判を確かめればいい」
詩子は考え込んだ。
「料理教室なら……できるかもしれません」
「できるかもしれない、じゃないよ。やってみるんだ」
ヨシエは、ぴしゃりと言った。
「やってみて、続けられそうなら続ける。もっと大勢に食べてもらいたくなったら、そのとき店を考えればいい。夢を持つのと、最初から大金を使うのは、別の話だからね」
詩子は、ゆっくりとガレットを見つめた。
自分が作った料理。
慎二と初めて食べた料理。
あの日から、ずっと心の中に残っていた味。
「……お店の名前も、考えてあるんです」
「へえ。何ていうんだい?」
詩子は、少し照れたように答えた。
「Lettre d’amour」
ヨシエは、聞き慣れないフランス語を口の中で繰り返した。
「レットル・ダムール……かい?」
「はい。『愛の手紙』という意味なんです」
「愛の手紙ねえ」
ヨシエは、詩子の顔を見た。
「慎二さんに宛てた手紙かい?」
詩子は少し考えてから、首を横に振った。
「最初は、そうだったのかもしれません。でも……今は、それだけではない気がします」
「ほう?」
「主人と出会った日のことを、私だけの思い出にしておくのではなくて。料理を通して、誰かに伝えられたらと思うんです。食べてくださった方が、家族や大切な人と食卓を囲みたくなるような……そんな場所にできたら」
ヨシエは、しばらく黙っていた。
やがて、ふっと笑った。
「いい名前じゃないか」
詩子の目が潤んだ。
「ありがとうございます」
「だから、礼はまだ早いって言ってるだろう」
ヨシエは、残っていたガレットをひと口食べた。
「料理教室を始めるなら、まずは募集の仕方を考えな。ガレットを知らない人にも、何を作るのか、どんな味なのか、わかるようにする。料金も、材料費だけで決めちゃいけない。あんたの手間だって、ちゃんと値段に入れるんだよ」
「はい」
「それから、息子たちには、いきなり店を開くと言うんじゃない。まずは自宅で少人数の料理教室を始める、と話してみな。具体的な計画があれば、向こうも少しは考えやすいだろう」
「……わかりました」
詩子は、まっすぐにヨシエを見た。
「私、やってみます」
「そうかい」
ヨシエは満足そうにうなずいた。
「それでいいんだよ。三年も心に穴があいたままだったんだ。これからは、その穴を無理にふさごうとするんじゃなくて、そこから何かを始めればいい」
詩子は、そっと目を伏せた。
慎二を忘れるつもりはない。
初めてのデートで食べたカスレも、ガレットも、インゲン豆のサラダも。
あの日の自分も、慎二の笑顔も。
何ひとつ、捨てる必要はないのだ。
思い出を胸に抱いたまま、新しい一歩を踏み出してもいい。
「Lettre d’amour……」
詩子は、小さくつぶやいた。
その名が、今度は未来へ向けた言葉のように聞こえた。
*
帰り際、詩子は玄関までヨシエを見送った。
「先生、本当にありがとうございました」
「だから、先生はよしとくれ」
ヨシエは靴を履きながら、振り返った。
「それから、ひとつ言っておくよ」
「はい」
「料理教室を始めたら、あたしにも知らせな。最初の生徒になってやるとは約束しないけどね」
「えっ?」
「料理の腕は認めた。でも、教え方までうまいかどうかは、まだわからないからねえ」
詩子は笑った。
「はい。厳しくお願いします」
「厳しいよ。あたしは、まずいものと、商売の甘い算段には容赦しないんだ」
ヨシエはそう言って、玄関を出た。
外の空気は、少し冷たかった。
人間、いくつになっても、先のことはわからない。
けれど、何も始めなければ、何も変わらない。
ヨシエは歩きながら、ふと思った。
Lettre d’amour。
愛の手紙、か。
亡くなった亭主への手紙が、いつか誰かの食卓へ届く。
それも、悪くない。
「さて……今夜は蕎麦にするかね」
ヨシエは、いつもの蕎麦処 権堂へ向かって歩き出した。
人の運勢を占うのは商売だ。
だが、人生の算段は、占いだけじゃ立てられない。
ときには、うまい料理を食べることから始まる。
ヨシエは、そんなことを考えていた。




