第二十四話 95年目の暖簾―アンタ、店を畳むのかい 【前編】 改訂版
# 第二十四話 95年目の暖簾――アンタ、店を畳むのかい 【前編】
内幸町の雑居ビルの一室。
「占いババア」と書かれた看板の下で、今日も女主人は、わかば・シガーをくゆらせていた。
ドアが開いた。
「……失礼します」
入ってきたのは、七十代と思しき男だった。背筋は伸びているが、歩き方には、いくらか疲れがにじんでいる。
「座んな。十五分、五千円だよ。先に言っとくけど、時間が来たら話の途中でも終わりだからね」
男は苦笑した。
「承知しています」
「で、何を占ってほしいんだい?」
「店のことで、相談に乗っていただきたいんです」
「店?」
「はい。大門で、とんかつ屋をやっています。『勝成』という店です」
ババアの眉が、わずかに動いた。
「勝成……。ずいぶん、年季の入った名前だね」
「創業者の名前なんです。今年で九十五年になります」
「九十五年かい。そりゃ、アンタ一代で作った店じゃないね」
「ええ。私は三代目になります。渡部誠一と申します。七十三歳です」
「で、悩みってのは?」
渡部は、膝の上で両手を組んだ。
「店を閉めるべきか、それとも、弟子に継がせるべきか……。決めかねているんです」
「息子はいないのかい?」
「三人います。ただ、誰も店を継ぐつもりはありません。それぞれ仕事も家庭もありますから、無理に継がせるわけにはいきません」
「そりゃそうだ。親の人生を、そのまま子どもに押しつけるわけにもいかないからね」
渡部は、少しほっとしたように顔を上げた。
「長年、店で働いてくれている弟子がいます。佐伯勇治といって、三十九歳です」
「その弟子が、継ぎたいと言ってるのかい?」
「はい。私のことを親方と呼んでくれる、真面目な男です。技術も、店のことも、よく覚えてくれました。本人は、ぜひ継がせてほしいと言っています」
「だったら、何を迷ってるんだい。跡継ぎがいるなら、いい話じゃないか」
渡部は、すぐには答えなかった。
「……私の体が、もう限界なんです」
ババアは、男の顔を見た。
「毎日、何度もとんかつを揚げる。仕込みをして、注文を受けて、油の具合を見て、片づける。若いころは、こんなこと、何でもありませんでした。でも、今は……」
言葉が途切れた。
「朝、店に立つときは、今日もやれると思うんです。ところが、昼の忙しい時間を過ぎるころには、足腰が悲鳴を上げる。夜の営業が終わると、もう、立っているのもつらい」
「医者には診てもらったのかい?」
「無理はするな、と言われています」
「医者の言うことは聞いときな。職人だからって、体まで油で揚げ直せるわけじゃないんだよ」
渡部は、思わず小さく笑った。
だが、すぐに表情を戻した。
「私は、店を閉めたいわけじゃないんです」
「でも、今のまま続けるのは難しい」
「……はい」
「弟子に任せるのが怖いのかい?」
「怖い、というより……」
渡部は、言葉を探した。
「『勝成』という名前は、創業者から受け継いできたものです。私の代で途切れさせたくない。けれど、血のつながりのない人間に、その名前を託していいものなのか……」
「勇治は、アンタのことをどう思ってるんだい?」
「親方として、尊敬してくれていると思います。あいつは、私が教えたことを、よく覚えています。お客さんのことも、よく見ています」
「だったら、血がつながってないことだけが問題なのかい?」
渡部は、うつむいた。
「……私自身が、まだ踏ん切りをつけられないのかもしれません」
ババアは、灰皿にシガーを置いた。
「いいかい。アンタが九十五年の歴史を作ったわけじゃない。でも、アンタも、その歴史の一部を背負ってきたんだろう?」
「はい」
「だったら、店を残すってのは、看板を残すことだけじゃない。技を残すことでもある。もっとも、誰に何を託すかは、簡単に決められる話じゃないけどね」
ババアは、机の上を片づけ、易を立てる準備をした。
「今回、聞きたいのは、勇治に継がせたら成功するか、ってことじゃないね」
渡部は、うなずいた。
「はい。未来を保証してほしいわけではありません。私が、何を見極めるべきなのか。それを知りたいんです」
「よし。なら、そこを占おうじゃないか」
ババアは、問いを定めた。
**渡部誠一は、佐伯勇治に『勝成』の暖簾を託すにあたり、何を見極めるべきか。**
易を立て、得られた卦を机の上に記した。
「……風雷益、六四」
「風雷益、ですか」
「そうだよ」
ババアは、紙に書いた文字を指でたたいた。
「まずは卦辞だ」
> **益。利有攸往。利涉大川。**
>
> 益は、往くところあるに利あり。大川を渉るに利あり。
「『益』は、増す、益する、という意味だね。何かを前へ進めるときの卦だ。大きな川を渡るような難事にも、取り組む価値があると読む」
「それは、店を続けるということでしょうか」
「早合点するんじゃないよ。店を続けることだけが、益になるとは限らない。何を残せば、何が豊かになるのか。それを考えな」
ババアは、次に六四の爻辞を読み上げた。
> **六四。中行、告公從。利用為依遷國。**
>
> 中行し、公に告げて従われる。依るを為し、国を遷すに用うるに利あり。
「ここが今回の肝だよ」
「国を遷す……ですか」
「昔の言葉だからね。今の話にそのまま当てはめるんじゃない。大事なのは、何かを移すとき、ひとりで勝手に決めるんじゃなく、しかるべき相手に話し、理解を得て、よりどころを整えるってことさ」
渡部は、じっと聞いていた。
「アンタは、勇治に暖簾を渡すかどうか、ひとりで悩んでる。でも、勇治はどう考えているんだい?」
「継ぎたい、と言っています」
「それは聞いたよ。じゃあ、何を継ぎたいんだい? 店の名前か、技か、商売か。それとも、その全部かい?」
渡部は、口を閉じた。
「……そこまでは、聞いていません」
「聞いてないのに、渡していいかどうかを悩んでるのかい」
「……そうですね」
「まずは話をしな。アンタが守りたいものと、勇治が引き受けたいもの。その中身を確かめるんだよ」
ババアは、爻辞の最後をもう一度指でなぞった。
「それから、これは六四が変じた卦だ。之卦は、天雷无妄」
「无妄……」
「飾り立てず、作為を加えず、筋の通った道を行く。都合のいい夢だけを見て、話を進めるんじゃない。勇治が継ぎたいと言っているからって、全部うまくいくと決まったわけじゃないからね」
「はい」
「資金はどうする。設備はどうする。店の名義はどうする。仕入れ先や従業員との関係はどうする。親方がどこまで店に残り、いつ、どの仕事を手放すのか。そこも話し合わなきゃいけない」
渡部は、ゆっくりとうなずいた。
「……私が倒れてからでは、遅いですね」
「そういうことさ。教えられるうちに教える。任せられるうちに任せる。アンタがずっと揚げ場に立っていなきゃ、店が残らないなんて決まりはないだろう?」
「勇治は、私が元気なうちに教えてほしい、と言っていました」
「だったら、今が話しどきじゃないか」
渡部は、両手を見つめた。
何十年も、とんかつを揚げてきた手だった。
「……私は、店を手放すことを、店を失うことと同じだと思っていたのかもしれません」
「同じかどうかは、これから決めることだよ。譲ったあとも、アンタが店のことを気にかけるのは構わない。でも、勇治に任せるなら、任せる覚悟もいる。いつまでもアンタの言うとおりにさせるんじゃ、継いだことにならないからね」
渡部は、顔を上げた。
「勇治と、きちんと話してみます」
「そうしな。易は、アンタの代わりに判を押してくれるわけじゃない。決めるのはアンタだよ」
やがて、十五分が近づいた。
渡部は財布を取り出した。
「では、お支払いを」
「五千円だよ」
「はい」
男がスマートフォンを取り出した。
「au PAYでお願いします」
ババアは、ほんの一瞬、手を止めた。
「……あんた、老舗のとんかつ屋の親方だろう?」
「はい」
「支払いは、ずいぶん今風なんだね」
「店でもキャッシュレス決済を導入していますから。お客様に便利な方法を選んでいただけるように」
「ふうん。悪くないね」
ババアは、AirPAYの端末を操作した。
「時代に合わせるところは合わせる。だけど、守るところは守る。そういうことかい」
「……そうかもしれません」
決済音が鳴った。
渡部は立ち上がり、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「礼は、店のことを決めてから言いな」
男がドアに手をかけたとき、ババアが呼び止めた。
「渡部さん」
「はい?」
「今度、店に行くよ」
「……うちに、ですか?」
「大門の『勝成』だろう? 客として行くんだよ」
渡部の顔が、少し明るくなった。
「ぜひ、お待ちしております」
「ヒレとんかつ定食はあるね?」
「もちろん、ございます」
「それから、酒は何があるんだい?」
「ウイスキーでしたら、響も置いています」
ババアは、口元をわずかに緩めた。
「……へえ。なかなか、やるじゃないか」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、まだ早いよ。食べてから決めるからね」
渡部が帰ったあと、ババアは、しばらく閉じたドアを見つめていた。
九十五年続いた店。
七十三歳の親方。
三十九歳の弟子。
そして、風雷益の六四。
店を残すというのは、いったい、どういうことなのか。
「……まずは、とんかつを食べてからだね」
ババアは、シガーを手に取った。
次は、客として。
易の卦だけでは見えないものを、自分の目と舌で確かめに行くつもりだった。




