第二十五話 暖簾の向こう側―アンタ、味まで継がせられるのかい 【後編】
第二十五話 暖簾の向こう側―アンタ、味まで継がせられるのかい 【後編】
大門。
昼どきの人通りが落ち着き始めたころ、一人の女が、老舗とんかつ屋「勝成」の暖簾をくぐった。
黒いシャツに、黒いボトムス。
キャサリン・ハムネットの、余計な飾りを削ぎ落とした装いだった。足元だけはキャメル色のブーティ。全身を黒でまとめながら、そこに一点、柔らかな色を差している。
背筋が伸び、歩き方に迷いがない。
元タカラジェンヌの男役。
その面影は、年齢を重ねても消えていなかった。
「いらっしゃいませ!」
店員が声をかける。
女は店内をひととおり見回した。
長年使われてきた木のカウンター。手入れの行き届いた厨房。壁には、店の歴史を感じさせる写真が飾られている。
新しいものを無理に取り入れた様子もなければ、古さを自慢するような気負いもない。
「……ふうん」
女はカウンターに腰を下ろした。
「ヒレとんかつ定食。それから、響のハイボールをもらおうか」
店員が一瞬、聞き返しそうになった。
「ヒレとんかつ定食と、響のハイボールですね」
「そうだよ」
「かしこまりました」
厨房の奥から、渡部誠一が顔を出した。
「……先生?」
女は振り返った。
「なんだい。客の顔を忘れたのかい?」
「いえ、まさか、本当に来てくださるとは……」
「行くって言っただろう。あたしゃ、嘘をついて客を呼ぶような商売はしてないんだよ」
「ありがとうございます」
「礼は、とんかつを食べてからだね」
渡部は苦笑し、厨房へ戻った。
女は、何事もなかったようにメニューを閉じた。
やがて、響のハイボールが運ばれてきた。
グラスの中で氷が軽く鳴る。
女はグラスを持ち上げ、ひと口飲んだ。
「……ふん」
満足したのか、不満なのか。
その表情からは、読み取れなかった。
続いて、ヒレとんかつ定食が運ばれてきた。
揚げたてのヒレかつ。千切りキャベツ。白いご飯に、味噌汁、漬物。
女は箸を取り、まずはヒレかつをひと切れ口に運んだ。
噛む。
ゆっくりと味わう。
衣の歯触り。肉の柔らかさ。火の通り具合。
ソースをつけず、もうひと口。
それから、ようやくご飯を口にした。
「……なるほどね」
カウンターの向こうで、渡部がこちらを気にしている。
女は顔を上げた。
「親方」
「はい」
「アンタ、毎日これを揚げてるのかい?」
「ええ。もちろん、仕込みやほかの仕事もありますが」
「七十三だって言ってたね」
「はい」
「そりゃ、しんどいだろうね」
渡部は、何も言わなかった。
「味は、悪くないよ」
その言葉に、渡部の顔が少し緩んだ。
「ありがとうございます」
「ただし、あたしゃ、まだひと皿食べただけだ。九十五年の看板まで保証したわけじゃないよ」
「……はい」
「それに、店は味だけじゃ続かない。客が来て、働く人がいて、仕入れができて、家賃が払えて、初めて商売になるんだからね」
「おっしゃるとおりです」
女は、もうひと口ハイボールを飲んだ。
「ところで、勇治はどこだい?」
「仕込みをしています。もうすぐ、こちらに来ると思います」
そのとき、厨房の奥から、若い男が出てきた。
「親方、次の仕込みですが……」
男はカウンターの客を見て、足を止めた。
「……あれ?」
渡部が紹介した。
「勇治。こちらは、先日、相談に乗っていただいた先生だ」
「佐伯勇治です。初めまして」
勇治は、きちんと頭を下げた。
女は、その様子を見ていた。
「アンタが勇治かい」
「はい」
「親方から、話は聞いてるよ」
「……どんな話でしょうか」
「よく働く。客をよく見てる。技も覚えた。そういう話さ」
勇治は、照れくさそうに笑った。
「まだまだです。親方には、教わることばかりですから」
「ふうん」
女は、ヒレかつをもうひと切れ食べた。
「じゃあ、ひとつ聞くよ。アンタは、この店を継ぎたいんだってね」
勇治の表情が引き締まった。
「はい」
「どうしてだい?」
「……この店が好きだからです」
「そりゃ、誰でも言えるね」
勇治は、すぐには答えなかった。
厨房からは、油のはぜる音が聞こえている。
「親方の仕事を見てきました。仕込みも、揚げ方も、お客さんへの接し方も。簡単にまねできるものじゃありません。でも、親方がいなくなったら、それを教えてもらうこともできなくなります」
「だから、継ぎたい?」
「はい。親方が元気なうちに、もっと教えていただきたいんです」
女は、勇治の顔をじっと見た。
「親方が、もう揚げ場に立てなくなったら?」
「……私が揚げます」
「親方と同じ味を出せるのかい?」
「今すぐには、できないと思います」
勇治は、正直に答えた。
「でも、近づけるように努力します。自分ができることと、できないことを確かめながら、少しずつ任せてもらいたいんです」
「ふうん。最初から、親方と同じになれるとは言わないんだね」
「はい。私は親方ではありませんから」
その答えに、渡部が目を伏せた。
女は、残ったヒレかつを口に運んだ。
それから、箸を置いた。
「親方」
「はい」
「アンタ、勇治に何を継がせたいんだい?」
渡部は、しばらく考えていた。
「……店の味です」
「それだけかい?」
「お客様に、また来たいと思っていただける店であること。それから、仕事に手を抜かないこと。先代から教わってきたことを、私なりに守ってきました」
「じゃあ、勇治がアンタと違うやり方を始めたら、どうする?」
渡部は、答えに詰まった。
勇治も、親方の顔を見ている。
女は、急かさなかった。
やがて、渡部が口を開いた。
「……店を守ってくれるなら、私と違うやり方があっても、いいのかもしれません」
「本当にそう思ってるかい?」
「まだ、わかりません」
女は、ふっと笑った。
「正直でいいじゃないか。わかったふりをするより、ずっとましだよ」
渡部は、深く息を吐いた。
「私は、店を譲ったら、自分の居場所までなくなるような気がしていたのかもしれません」
勇治が、親方を見た。
「親方……」
「お前が継いでくれたら、うれしい。だが、いざ譲るとなると、何もかも自分の手から離れてしまうようでな」
「私は、親方を追い出すつもりなんてありません」
「わかっている」
「親方が元気なうちに、仕事を教えてほしいんです。揚げ方だけじゃありません。仕入れ先との付き合いも、店の数字も、常連さんの好みも。私が知らないことは、まだたくさんあります」
渡部は、弟子の顔を見つめた。
「……そうだったな」
女は、響のハイボールを飲み干した。
「いいかい、二人とも」
親方と弟子が、同時にこちらを向いた。
「暖簾を継ぐってのは、古いものをそのまま保存することじゃない。かといって、名前だけ残して中身を好き勝手に変えることでもない」
女は、空になったグラスを置いた。
「何を守るのか。何を変えていいのか。それを話し合うんだよ。親方が全部決めて、勇治が全部従うんじゃ、継いだことにならないからね」
「……はい」
「それから、金のことも契約のことも、曖昧にするんじゃないよ。暖簾への思いだけで、商売は回らない。勇治の生活もある。親方の老後もある。どっちかが我慢すれば済む、なんて考えちゃいけない」
渡部と勇治は、黙って聞いていた。
「まずは、具体的な話をしな。何をいつまでに教えるのか。いつから経営を任せるのか。親方は、譲ったあと、どう店に関わるのか。そこを決めてから、次の段階へ進めばいい」
「……はい。勇治と、もう一度きちんと話します」
渡部が答えた。
勇治も、頭を下げた。
「私も、親方に任せきりにせず、経営のことを勉強します」
「そうしな。二人とも、まだ話し合うことが山ほどあるんだからね」
女は立ち上がった。
「ごちそうさま。ヒレかつ、なかなかよかったよ」
渡部が、ほっとした顔で頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただし、次に来たときも同じ味が出せるとは限らない。商売は、毎日が勝負だからね」
「はい。肝に銘じます」
「それと、響も悪くなかったよ」
「ありがとうございます」
「礼ばっかり言ってないで、仕事に戻りな。客が待ってるよ」
勇治が厨房へ戻り、渡部も店の奥へ向かった。
女は会計を済ませ、暖簾をくぐった。
外へ出ると、午後の光が大門の通りに差していた。
黒いシャツとボトムス。キャメル色のブーティ。
女は、いつものように背筋を伸ばして歩き始めた。
その足取りは、来たときと変わらない。
けれど、ひとつだけ、確かめられたことがあった。
親方は、店を残したい。
弟子は、店を継ぎたい。
二人とも、暖簾を大切に思っている。
ただし、それだけで承継がうまくいくわけではない。
「……まったく。人間ってのは、面倒なもんだね」
女は、小さくつぶやいた。
そして、少しだけ口元を緩めた。
「でも、悪くない店だったよ」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
その夜、内幸町の占いババアの店では、いつものように看板の灯りがついていた。
次の相談者がドアを開ける。
「先生、仕事のことで……」
「座んな。十五分、五千円だよ」
女は、いつもの調子で言った。
「それで、何を悩んでるんだい?」




