第二十二話 生前贈与の甘い罠―訟の卦は、家族の本音を裁けるかい
第二十二話 生前贈与の甘い罠―訟の卦は、家族の本音を裁けるかい
内幸町の小さな占いの店に、品のよい女性がやって来た。
年齢は七十代の半ばだろうか。背筋は伸び、髪はきれいに整えられている。手にしたバッグも、靴も、長年使い込んだものらしいが、手入れが行き届いていた。
ババアは、わかば・シガーに火をつけた。
「いらっしゃい。何を占ってほしいんだい?」
「家族のことです」
女性は、少し間を置いてから続けた。
「息子のお嫁さんが、生前贈与を勧めてくるんです」
「へえ。ずいぶん親切な嫁さんだね」
ババアは煙を吐いた。
「で、アンタは何が気に入らないんだい?」
「それが……」
女性はバッグから、きれいに折り畳まれた紙を取り出した。
「相続税のことを考えれば、早めに財産を渡しておいたほうがいい、と。税理士さんにも相談したほうがいいと言うんです。息子夫婦は、私の老後のことも心配してくれているんですって」
「そりゃ、ありがたい話じゃないか」
「ええ。私も、最初はそう思いました」
女性は紙を見つめた。
「でも、贈与が済んだら、老人ホームに入ったらどうかと言われたんです」
「ほう」
「私が一人で暮らすのは心配だし、息子夫婦にも生活がありますから。施設に入れば、みんな安心できるでしょう、と」
「アンタは、老人ホームが嫌なのかい?」
「いいえ。老人ホームそのものが嫌なわけではありません。必要になれば、私だって考えます。でもね……」
女性の声が、少し震えた。
「財産を渡してしまったら、私は、どこに住むかまで自分で決められなくなるんじゃないかと。それが怖いんです」
ババアは、女性の顔をじっと見た。
「なるほどね。老人ホームが怖いんじゃない。自分の人生の決定権まで、先に贈与しちまうのが怖いんだ」
女性は、はっと顔を上げた。
「……そうかもしれません」
「で、嫁さんは、いつからそんなに相続税に詳しくなったんだい?」
「え?」
「いやね。税金の心配をしてくれるのは結構だけど、アンタの財産の額やら、贈与の時期やら、施設の入居時期やら。ずいぶん具体的な話になってるじゃないか」
「そうなんです。最近、急に話が進み始めて」
「息子は何て言ってる?」
「息子は、お嫁さんに任せているようです。私に、悪いようにはしないと言っています」
「悪いようにはしない、ねえ」
ババアは鼻で笑った。
「それは便利な言葉だね。誰にとって悪くないのか、肝心なところが抜けてる」
女性は、黙ってうなずいた。
「それで、占っていただきたいんです。お嫁さんは、私の財産が欲しいだけなんでしょうか」
「アンタねえ」
ババアは灰皿に灰を落とした。
「アタシは占い師だよ。人の頭の中を覗ける神様じゃない。嫁さんの本心を、ここで断定してやることはできないね」
女性は少し落胆したようだった。
「でも、易経で占ってくださるんでしょう?」
「もちろんさ。易は、人の心を勝手に決めつけるための道具じゃない。いま何が問題になっていて、どう動くべきかを考えるためのものだよ」
ババアは筮竹を手に取った。
「さあ、問いをはっきりさせな。『嫁は悪人か』じゃない。『財産を渡す話を進めるにあたり、何を見極めるべきか』だ」
女性は、静かに目を閉じた。
やがて、ババアは卦を定めた。
「出たのは、**天水訟**」
「訟……争い、という意味ですか?」
「そうさ。上は天、下は水。易経の訟は、言い分が食い違い、争いが生じることを扱う卦だ」
ババアは、紙に卦の形を書きつけた。
「アンタは、家族のためを思って財産を渡そうとしている。嫁さんは、相続税対策だと言う。息子は、嫁さんに任せている。ところが、財産を渡した後の暮らしについて、アンタ自身の希望は、まだきちんと話し合われていない」
「……はい」
「つまり、いま問題なのは、誰が善人で誰が悪人かじゃない。**同じ話をしているつもりで、三人が別々のことを考えているかもしれない**ってことさ」
女性は、膝の上で手を握りしめた。
「では、爻は?」
ババアは九五の位置を指で示した。
「九五。爻辞は、これだよ」
> 訟元吉。
「訟において、元吉。争いを公正に扱うことの大切さを示す言葉だね。これを、アンタが必ず勝つとか、嫁さんが負けるとか、そんな安っぽい予言にしてはいけない」
「公正に扱う……」
「そう。家族だから、信頼しているから、という理由で、曖昧なまま進めちゃいけない話がある。財産のことは、まさにそうさ」
ババアは、さらに卦を見つめた。
「この九五が変わると、**澤水困**になる」
「困……困る、という字ですね」
「水の上に沢がある。水が自由に流れられず、窮する象として読まれる卦だ。財産を渡した後で、アンタが身動きできなくなるようなことがあれば、まさに困るだろうね」
女性は唇を結んだ。
「じゃあ、やっぱり、嫁は私を老人ホームに押し込むつもりなんでしょうか」
「だから、そこを卦で決めるんじゃないよ!」
ババアの声が店内に響いた。
「老人ホームが必要になることと、財産を渡すことは別の話だ。施設に入るのがアンタにとって幸せな場合だってある。息子夫婦が本当に心配してくれている可能性だってある。だけどね、どちらの場合でも、アンタの意思を飛び越えて話を進めていい理由にはならない」
女性は、目を伏せた。
「……そうですね」
「それに、相続税対策だと言うなら、税理士に確認すればいい。生前贈与には税金や制度上の条件がある。財産の種類や金額、贈与する時期によっても違う。嫁さんの説明だけで決める必要はないよ」
「息子夫婦と一緒に、税理士さんに相談するんですか?」
「それでもいい。ただし、アンタ自身が納得できるように、独立した専門家にも相談しな。家族の誰かに都合のいい説明だけ聞いて、ハンコを押すんじゃないよ」
ババアは、わかば・シガーをくゆらせた。
「それから、もう一つ。贈与した後の住まい、生活費、介護が必要になったときの費用。誰が何を負担するのか。アンタがどこで暮らしたいのか。そこを、財産を渡す前に具体的に話しな」
「そんなことを言ったら、お嫁さんに疑っていると思われませんか?」
「疑われたくないから、財産を渡すのかい?」
女性は、息を呑んだ。
「アンタ、ずいぶん長いこと、家族に嫌われないように生きてきたんだね」
「……そうかもしれません」
「けどね、家族に好かれることと、家族の言うとおりにすることは違うんだよ」
女性の目に、涙が浮かんだ。
「私、若いころは舞台が好きだったんです。宝塚の男役スターに夢中で。あの人たちは、舞台の上で、誰よりも堂々としていて……」
「へえ。アンタも、ずいぶん可愛いところがあったんだね」
「ありましたよ。公演のたびに通って、友達と感想を言い合って。結婚して、子どもが生まれてからは、そういうこともなくなりましたけど」
「人生ってのは、幕間が長いこともあるからねえ」
女性は、少し笑った。
「この年になって、やっと自分の時間が戻ってくると思っていたんです。でも、今度は財産を渡して、家を出て……。それで、私の人生は終わりなのかしらって」
「誰が終わりだと言ったんだい?」
「誰も、そんなことは言っていません。ただ、話がそういう方向に進んでいる気がして」
「だったら、話を止めな。少なくとも、アンタが納得するまではね」
ババアは、きっぱりと言った。
「財産を渡すかどうかも、どこで暮らすかも、アンタが決めることだ。家族と相談するのはいい。でも、相談することと、決定権を差し出すことは違う」
女性は、ゆっくりとうなずいた。
「私、もう一度、舞台を観に行ってもいいでしょうか」
「何を言ってるんだい。舞台を観るのに、アタシの許可がいるのかい?」
「ふふっ。そうですね」
「まずは、昔の友達に連絡してみな。今のアンタが観たいものを、自分で選ぶんだよ」
女性は立ち上がり、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。贈与の話は、いったん保留にします。専門家に相談して、私がこれからどう暮らしたいのか、ちゃんと考えます」
「それでいい。急いで決める必要はないからね」
女性が店を出たあと、ババアは筮竹を片づけた。
「まったく。財産を渡す前から、老後の行き先まで決められてたまるかってんだ」
わかば・シガーの煙が、ゆっくりと天井へ昇っていく。
ふと、ババアは思い出したように呟いた。
「しかし、宝塚の男役に夢中だった女ってのは、年を取っても、肝心なところで男前だねえ」
そして、灰皿に灰を落とした。
「さて。次はどんな人生相談が来ることやら」
内幸町の占いの店は、今日も開いている。




