第二十一話 起業する男―鼎の中身は、あるのかい
第二十一話 起業する男―鼎の中身は、あるのかい
内幸町の占い部屋に、三十三歳の男がやって来た。
紺色のスーツに、磨かれた革靴。髪もきちんと整えられている。手には、厚みのある黒いファイルを抱えていた。
男は椅子に座るなり、深々と頭を下げた。
「先生、私は起業しようと思っています」
「そうかい」
占いババアは、わかば・シガーを指に挟んだまま答えた。
「それで?」
「……それで、成功するかどうか、占っていただきたいんです」
「いくら儲かるか、って?」
「いえ。もちろん、それも気になりますが」
「会社を辞めてもいいか。借金してもいいか。女房や親に反対されても突っ走っていいか。そんなところかね」
男は目を丸くした。
「なぜ、おわかりになるんですか?」
「アンタねえ。三十三にもなって、会社を辞めて起業しようなんて男が、何も心配していないわけないだろう。占い師じゃなくたって、そのくらい想像がつくよ」
「……おっしゃるとおりです」
「で、何をするんだい?」
男は、待ってましたとばかりにファイルを開いた。
「法人向けの業務支援サービスです。中小企業の事務作業を効率化するシステムを開発して、月額料金で提供します。すでに市場調査も済ませています。競合他社との差別化も考えてありますし、三年間の収支予測も作成しました」
「ほう」
「初年度は赤字ですが、二年目に損益分岐点を超え、三年目には黒字化する計画です」
「ほうほう」
「初期費用は自己資金と融資でまかないます。顧客候補も何社かあります。うち二社からは、正式な契約ではありませんが、サービスの説明を聞きたいと言われています」
ババアは、煙を吐いた。
「アンタ、ずいぶん準備してきたじゃないか」
男の顔に、安堵の色が浮かんだ。
「はい。会社でも、ずっと新規事業の企画を担当してきました。自分なら、もっと小回りの利く会社を作れると思うんです」
「それで、今の会社を辞めるのかい?」
「はい」
「なぜだい?」
男は、口を開きかけて、閉じた。
「……自分の力を試したいんです」
「それは、さっきも聞いたよ」
「はい」
「じゃあ、もう一度聞くよ。なぜ、今の会社じゃ駄目なんだい?」
男はファイルの端を指でなぞった。
「会社では、新しい提案をしても、決裁に時間がかかるんです。部署間の調整も必要ですし、失敗したときの責任問題もあります。もっと迅速に判断して、顧客の要望に応えたいんです」
「ふうん」
ババアは、男の顔をじっと見た。
「それで、アンタは、自分の会社なら失敗しないと思っているのかい?」
「いえ、そんなことは……」
「じゃあ、失敗したとき、誰が責任を取るんだい?」
「私です」
「そうだね。営業がうまくいかなければ、アンタ。開発が遅れれば、アンタ。顧客から苦情が来ても、アンタ。金が足りなくなっても、アンタ。今まで会社の中で分担されていた仕事が、全部アンタのところへ来るんだよ」
男は黙った。
「それでも、やりたいのかい?」
「……はい」
「そうかい」
ババアは、灰皿に煙草を置いた。
「だったら、易を立てようじゃないか」
男は背筋を伸ばした。
「よろしくお願いします」
「ただし、先に言っておくよ。卦が吉だから成功する、凶だから失敗する。そんな単純な話じゃない。易は、アンタの代わりに会社を経営してくれるわけじゃないからね」
「承知しています」
「本当かねえ」
ババアは、筮竹を取り出した。
一本一本を手に取り、伝統的な筮法の手順に従って数を分け、記録していく。六本の爻が下から順に定まるまで、男は黙って見守っていた。
やがて、ババアは筆を置いた。
「出たよ」
「どのような卦でしょうか」
「火風鼎。鼎の卦だ」
ババアは紙に六本の爻を書き、その横に卦名を記した。
「鼎ってのは、古代の三本脚の器だよ。食べ物を煮炊きするための器であり、祭祀にも用いられた。『易経』では、物を整え、新しいものを養い、変化させる象として読まれる」
男は身を乗り出した。
「新しい事業を始めるには、よい卦なのでしょうか」
「おいおい。もう吉凶を決めたがるのかい」
「すみません」
「鼎は、ただ新しいものを作ればいいって卦じゃない。器には中身がいる。脚が三本そろって、きちんと立たなきゃ、煮炊きもできないんだよ」
ババアは、男のファイルを指さした。
「アンタの事業計画は、器だ。立派な器を用意したつもりでも、中に入れるものがなければ、ただの飾り物さ」
「中身……」
「顧客が本当に金を払ってくれるのか。アンタのサービスがなければ困る人がいるのか。開発が遅れたら、どうするのか。予想より売れなかったら、何か月もつのか」
男の表情が、少しずつ硬くなった。
「そこまで考えていないとは言いません。ただ……」
「ただ?」
「実際に始めてみなければ、わからない部分もあります」
「そりゃ、そうだよ。始める前から何もかもわかる人間がいたら、そいつは商売人じゃなくて神様だ」
ババアは、口の端を上げた。
「問題は、わからないことがあるかどうかじゃない。わからないことを、わかったつもりで計画に書き込んでいないか、ってことさ」
男は、ファイルを見つめた。
ババアは、卦の二番目の爻を指で示した。
「鼎の九二。爻辞は、こうだよ。
『鼎有実、我仇有疾、不我能即、吉』
鼎に実がある。我が仇に疾あり。我に即く能わず。吉――そういう言葉だ」
「器の中に、実がある……」
「そう。まず、中身があること。それから、解釈には諸説あるが、妨げとなる相手が近づけない、という趣旨にも読める」
ババアは男を見た。
「だがね、アンタ。これを『競合他社が勝手に失敗するから、アンタは成功する』なんて読み方をしたら、明日からインチキ占い師のところへ行きな」
「は、はい!」
「競争相手が病気になろうが、会社が傾こうが、アンタの商売がよくなる保証なんかない。ライバルがいなくなっても、顧客がいなければ売上はゼロだよ」
男は、思わず苦笑した。
「確かに、そのとおりです」
「鼎の九二が吉だというなら、アンタが確かめるべきなのは、まず鼎の中身だ。アンタのサービスには、顧客が金を払うだけの実質があるのかい?」
「……あります」
「その根拠は?」
男は、ファイルをめくった。
「市場調査では、同様の業務に負担を感じている企業が多く……」
「それで?」
「導入すれば、作業時間を削減できると考えています」
「誰が、どのくらい金を払うんだい?」
男は、ページをめくる手を止めた。
「料金は、月額三万円を想定しています」
「誰が、その三万円を払うと言ったんだい?」
「まだ、正式な契約は……」
「じゃあ、今はアンタの想定だね」
男は、うつむいた。
「はい」
「別に、恥ずかしがることはないさ。想定するのが悪いんじゃない。想定と事実を、同じものみたいに扱うのが危ないんだよ」
ババアは、煙草を手に取った。
「もう一つ。鼎は、器を火にかけて、中身を煮るものだ。火加減を間違えれば、焦げつく。材料を入れすぎても、うまく煮えない」
「事業の規模を、急に大きくするなということでしょうか」
「アンタがそう考えるなら、そういう教訓は引き出せるね。ただし、卦がそう命令しているわけじゃない。アンタの計画に照らして、考えているんだよ」
ババアは、六本の爻を見直した。
「それから、この九二が変わると、之卦は火山旅になる」
「旅……ですか?」
「旅人の旅さ。旅の途中で、まだ落ち着く場所が定まっていない象だね」
男の顔から、少し笑みが消えた。
「それは、よくない意味でしょうか」
「また吉凶かい。旅人は、旅人だからこそ、周りをよく見なきゃならない。土地の決まりも知らず、案内人もなく、自分の常識だけで歩いていたら、道に迷うだろう?」
「はい」
「アンタは、会社を作ったら社長になる。だけど、社長になった途端に、何もかも知っている人間になるわけじゃない。営業も、資金繰りも、契約も、顧客対応も、知らないことが出てくるだろうさ」
「……そうですね」
「だったら、知っている人間に聞くんだよ。税理士でも、弁護士でも、先に起業した人でもいい。自分が旅人だってことを忘れないことさ」
男は長いあいだ黙っていた。
やがて、ファイルを閉じた。
「先生。私は、起業してもいいのでしょうか」
ババアは、露骨に嫌そうな顔をした。
「アンタ、あたしの話を聞いていたのかい?」
「はい」
「だったら、あたしに許可をもらおうとするんじゃないよ」
「……」
「起業するのはアンタだ。金を出すのもアンタ。失敗したときに責任を取るのもアンタ。あたしが『やりな』と言ったからって、損した金を返してやれるわけじゃないんだよ」
男は、小さくうなずいた。
「はい」
「だけどね」
ババアは、声を少し落とした。
「アンタが会社を辞めたい理由は、わかったよ。今の会社のやり方に不満がある。それだけじゃなく、自分で考えたものを、自分の責任で世の中に出してみたいんだろう?」
男は、顔を上げた。
「……はい」
「それなら、辞めるかどうかを決める前に、もう一つだけやってみな」
「何でしょうか」
「そのサービスに金を払ってくれる客を、三社見つけるんだよ。『興味があります』じゃない。『使ってみたい』だけでもない。料金と条件を示して、契約する意思があるか、確かめてみな」
男は、考え込んだ。
「三社……」
「三社が絶対の正解だって意味じゃないよ。アンタが、今の会社を辞める前に、自分で確かめるための目標さ。顧客が見つからなければ、サービスを見直す。必要なら、事業の範囲を小さくする。資金が足りなければ、資金計画を立て直す」
「それで、契約が取れたら?」
「そのときは、次の判断をするんだよ」
「次の判断……」
「一度に人生全部を賭けなくたっていいだろう。退職の時期も、融資の額も、事業の始め方も、段階を踏んで考えりゃいいんだ」
男は、ゆっくり息を吐いた。
「私は、起業するか、しないか。その二つしか考えていませんでした」
「白か黒か、ってわけだね。人間は、二つに分けると安心するからねえ。だけど、商売はそんなに都合よくできちゃいない」
男は、少し笑った。
「先生は、占い師なのに、ずいぶん現実的ですね」
「当たり前だよ。占い師が現実を見なくなったら、客の金だけじゃなく、人生まで無駄にさせちまう」
ババアは、煙草を灰皿に置いた。
「易は、未来を保証する証明書じゃない。アンタが何を見落としているのか、考えるきっかけにするんだよ」
男は立ち上がった。
「ありがとうございました。まずは、顧客候補に、具体的な料金と契約条件を提示してみます」
「そうしな」
「それから、資金計画も見直します。売上が想定の半分だった場合、何か月持ちこたえられるか、計算してみます」
「そうだね」
男は、頭を下げた。
「先生。最後に一つだけ」
「今度は何だい?」
「この卦は、私に向いている事業だと言っているのでしょうか」
ババアは、目を細めた。
「鼎の中身はあるか、と聞いたね」
「はい」
「その中身を、本当に欲しがる人がいるかどうか。そこは、卦だけじゃ決められないよ」
男はうなずいた。
「わかりました」
男が帰ったあと、ババアは、紙に書かれた火風鼎の卦を見つめた。
「鼎に実あり、か」
わかば・シガーの煙が、天井へとゆっくり昇っていく。
「さて。あの男、三社見つけてくるかねえ」
ババアは、口元をゆるめた。
「まあ、見つからなかったら、また来るんだろうさ。人間ってのは、そういうもんだからね」
内幸町の占い部屋には、今日も煙草の匂いが残っていた。




