第二十話 紫煙 改訂版
第二十話 紫煙
「先生、私、もう一度、あの頃に戻りたいんです」
内幸町の占い部屋に現れた女は、そう言って、膝の上で両手を握りしめた。
年齢は五十代半ばだろうか。
仕立てのよいジャケット。手入れの行き届いた髪。化粧も控えめだが、隙がない。
ただし、バッグから取り出した古い封筒だけは、ずいぶん長いあいだ大切にされてきたものらしかった。
「戻りたい?」
占いババアは、煙草を指先でつまんだまま、女を見た。
「どこへだい。実家かい。昔住んでいた町かい。それとも、元亭主のところかい」
「違います!」
女は、思わず声を張り上げた。
「若い頃です。あの頃の私に戻りたいんです」
「そりゃ、医者に相談しな。時間を逆戻りさせる薬があるかどうかね」
「先生!」
「冗談だよ。そんな怖い顔をするんじゃない」
ババアは、封筒に目を落とした。
中から出てきたのは、一枚の古い舞台写真だった。
男役のスターが、舞台衣装をまとい、正面を見据えている。
その眼差しには、写真の中だけで生き続ける者の、妙な永遠性があった。
「ほう。いい男だねえ」
「でしょう?」
女の表情が、ぱっと明るくなった。
「私、この方が大好きだったんです。毎公演、劇場へ通って。お手紙も書いて。ファンクラブのお手伝いもして……」
「それで?」
「結婚して、子供ができて、仕事も忙しくなって。だんだん劇場から遠ざかりました。でも、先日、昔のファン仲間から連絡があったんです。久しぶりに、みんなで集まろうって」
「行けばいいじゃないか」
「それが……」
女は写真を見つめた。
「みんな、今でも詳しいんです。昔の公演のことも、衣装のことも、当時の舞台裏のことも。私は、すっかり忘れてしまって。話についていけないんです」
「忘れたのかい」
「忘れたくなかったんです!」
女の声が震えた。
「私は、あの頃、本当に幸せだったんです。仕事がつらくても、次の公演があると思えば頑張れた。嫌なことがあっても、舞台を観れば、また明日から生きていけた。あの方が舞台に立っている。それだけでよかったんです」
ババアは、黙って聞いていた。
女は、古い写真の端をそっと撫でた。
「でも、今の私は、何を楽しみに生きているのか、わからなくなってしまって」
「なるほどねえ」
ババアは灰皿に煙草を押しつけた。
「アンタ、昔のスターに会いたいんじゃないね」
女が顔を上げた。
「あの頃の自分に、会いたいんだろう?」
女は、何も言わなかった。
「さてと」
ババアは机の下から、筮竹を取り出した。
「ここから先は、口先だけじゃ済まないね。易で見てみようじゃないか」
「易、ですか?」
「そうさ。『易経』を知らないのかい」
「名前は知っていますけれど……」
「名前を知っているのと、使えるのとは違うんだよ。アンタの人生を、六十四卦のどれかに無理やり押し込めるつもりはない。卦を立てて、その象を読み、今の状況を考えるんだ」
ババアは筮竹を手に取った。
「いいかい。占いってのは、都合のいい答えを買う場所じゃないよ」
女は背筋を伸ばした。
ババアは、伝統的な筮法に従って筮竹を分け、数を取り、手順を重ねていった。
一本、また一本。
数を確かめ、手元の記録に書きつける。
同じ手順を繰り返し、六本の爻を下から順に定めていく。
やがて、ババアは筆を置いた。
「出たよ」
女は息を呑んだ。
「本卦は、風山漸。上卦が巽、下卦が艮。五爻が変わって、之卦は艮為山だ」
ババアは、紙に二つの卦を書いた。
「まず、漸。『漸』ってのは、少しずつ進むことだ。一足飛びに変わるんじゃない。段階を踏んで、物事が進んでいく」
「少しずつ……」
「そうさ。『易経』の卦辞には、漸は女が嫁ぐことにたとえられ、『利貞』、正しさを守ることに利があると説かれている。古代の婚姻観が背景にある言葉だけれど、ここで大事なのは、物事には順序があるってことだ」
ババアは、女の目を見た。
「アンタは、昔の自分を取り戻そうとしている。けれど、若い頃の自分と、今の自分の間には、何十年もの暮らしがある。結婚も、子育ても、仕事も、そこを飛び越えて、昔の自分に戻ることはできない」
「……はい」
「でもね、漸は、止まれという卦じゃない。段階を踏んで進め、ということさ」
ババアは、卦の下から五番目を指で押さえた。
「五爻の爻辞には、こうある。
『鴻漸于陵、婦三歳不孕、終莫之勝、吉』
雁が丘陵へと進んでいく。婦人は三年、子を宿さない。だが、ついにはこれを妨げるものはなく、吉である――そういう趣旨だよ」
女は、首をかしげた。
「子供を授からないことが、吉なのですか?」
「そこだけ切り取って、そういう意味だと決めつけちゃいけない。古典の文脈では婚姻や子孫繁栄をめぐる表現だが、解釈には幅がある。少なくとも、現代のアンタに、そのまま当てはめる話じゃない」
ババアは、ぴしゃりと言った。
「ここで読むのは、すぐには望みがかなわない、進み方が遅い、途中で妨げがある。それでも、正しい道を守って進めば、最後には吉に至る、という筋だ」
「すぐには、かなわない……」
「そう。昔のファン仲間と会ったからって、昔の自分がそのまま戻ってくるわけじゃない。話についていけなくて、寂しい思いもするかもしれない。自分だけ時間が止まっていなかったことを、思い知らされるかもしれない」
女は唇を結んだ。
「でも、そこで終わりじゃない。アンタがこれから何を大切にするかは、まだ決まっていないんだよ」
ババアは、次に変卦を示した。
「そして、之卦は艮為山。艮は山。止まる、留まる、動きを止める、という象を持つ」
「止まる……」
「『易経』の艮卦には、『艮其背、不獲其身、行其庭、不見其人、无咎』とある。背に止まり、わが身を得ず、その庭を行くも、その人を見ず、咎なし。難しい言い回しだね」
ババアは、ゆっくりと言葉を続けた。
「自分の欲や執着に引きずられて、あれもこれも追いかけるのをやめる。自分の心を静めて、今、止まるべきところで止まる。そういう読み方ができる」
女は写真を握りしめた。
「つまり、私は、もうファンをやめたほうがいいんでしょうか」
「誰がそんなことを言ったんだい!」
ババアの一喝に、女の肩が跳ねた。
「艮は、何もかも捨てろという卦じゃない。昔のスターを好きだったことまで、なかったことにする必要はないんだよ」
「では……」
「アンタが止めるべきなのは、時間を逆戻りさせようとすることさ」
ババアは、写真を女の前へ戻した。
「若い頃の自分に戻れないからって、今の自分を失敗作みたいに扱うんじゃない。あの頃に夢中になれた自分がいた。それは本当だろう?」
「……はい」
「家庭を持った。子供を育てた。仕事をした。そうやって生きてきた今のアンタも、本物だ。舞台に通っていた頃だけが、アンタの人生じゃない」
女の目に、涙が浮かんだ。
「でも、私は、あの頃の情熱を失ってしまったんです」
「失ったのかね。それとも、使い切ったのかね」
女は、答えられなかった。
「情熱ってのは、同じ形のまま一生続くとは限らないんだよ。昔と同じ熱量で応援できなくなったからといって、あの頃の気持ちが嘘になるわけじゃない」
ババアは、「わかば・シガー」に、火をつけた。
「昔の公演を全部覚えていなくたっていい。ファン仲間の話についていけなくたっていい。今から、もう一度舞台を観たっていい。あるいは、観ないまま、あの頃を大切にしていたっていい」
「どちらでも、いいんですか?」
「自分で選ぶんだよ。占い師がアンタの人生まで決めてどうするんだい」
女は、目元を拭った。
「私、今度の集まりに行ってみようと思います」
「ほう」
「全部忘れてしまったことを、恥ずかしがらないで。昔の話を聞いて、私も好きだったんだって、素直に言ってみます」
「それでいいじゃないか」
「それに……」
女は、少し照れくさそうに笑った。
「今度、久しぶりに舞台を観に行こうかと思います。昔のスターではなく、今の舞台を」
ババアは、煙を吐いた。
「漸だねえ。ゆっくり進む。昔に戻るんじゃなくて、今の自分で、次の一歩を踏み出す」
女は、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
帰り際、女は一度だけ振り返った。
「先生。あの頃の私に、もう一度会えるでしょうか」
ババアは、鼻で笑った。
「さっきから、何度同じことを聞くんだい。会えるかどうかは、知らないよ」
女の顔が曇りかけた、そのとき。
「ただね」
ババアは、机の上の写真を指さした。
「アンタがあの頃の自分を、そんなに大切に思っているなら、その女は、まだアンタの中にいるんじゃないのかい」
女は、しばらく黙っていた。
それから、今度こそ笑った。
「……そうですね」
扉が閉まる。
ババアは、卦を書きつけた紙を見直した。
風山漸。
艮為山。
「まったく。昔のスターに会いたいって相談に来て、最後は自分に会いに帰るんだからねえ」
灰皿の煙が、ゆっくりと消えていく。
ババアは、古い舞台写真が置かれていた場所を、しばらく見つめていた。
「さてと。次は、どんな面倒な人生が来るんだい」
誰もいない部屋で、占いババアは一人、にやりと笑った。




