第十九話「急いで、辞めるんじゃないよ」改訂版
今回は、いつもと少し違います。
内幸町の占いババアが、ちゃんと占いをします。
使うのは、中国で生まれた古典『易経』に基づく、易占いです。
易では、自然界の働きを
「天・沢・火・雷・風・水・山・地」
の八つの象徴で表します。
これを「八卦」と呼びます。
八卦を上下に組み合わせると、六十四通りの卦が生まれます。これが「六十四卦」です。それぞれの卦には、異なる意味や象徴があります。
易占いでは、硬貨などを使って卦を立て、その意味を読み解きながら、相談者の状況や今後の進み方を考えます。
【易経の基本】
・八卦は、天・沢・火・雷・風・水・山・地を象徴する八つの卦。
・六十四卦は、八卦を上下に組み合わせたもの。
・風山漸は、物事が順序を踏みながら、少しずつ進むことを象徴する卦。
未来を何でも言い当てる魔法ではありません。
さて、今回、ババアが立てた卦は「風山漸」。
いったい、どんな占いになるのでしょうか。
第十九話「急いで、辞めるんじゃないよ」
「先生、会社を辞めたほうが、いいんでしょうか」
内幸町の占いババアの店に、三十代半ばの男がやって来た。
紺色のスーツに、よく磨かれた革靴。ネクタイは少し緩んでいる。
男は椅子に腰を下ろすと、ため息をついた。
「仕事が嫌いなのかい?」
「いえ。嫌いというわけではありません」
「給料が安いのかい?」
「いえ。生活には困っていません」
「上司が嫌いかい?」
「そういうわけでも……」
「じゃあ、何が不満なんだい?」
男は口を閉じた。
ババアは水晶玉を布で拭いた。
もちろん、ガラス玉である。
「会社の将来が、少し不安なんです。業績も以前ほどよくありませんし、業界全体も厳しくなっています。今のうちに転職したほうがいいのか。それとも、ここで頑張ったほうがいいのか……」
「転職先はあるのかい?」
「まだ、ありません」
「辞めたら、何をするんだい?」
「それも、決まっていません」
「なんだい。辞める先も決めずに、辞めるかどうかを占いに来たのかい」
「だから、占っていただきたいんです」
男は、少しむっとした。
ババアは気にしなかった。
「五千円だよ」
男は財布から五千円札を出し、テーブルに置いた。
ババアはそれを引き出しにしまうと、今度は別の引き出しを開けた。
中から、小さな布袋を取り出す。
「先生、それは?」
「占いの道具だよ」
袋の中には、硬貨が三枚入っていた。
「水晶玉で占うんじゃないんですか?」
「これはガラスだよ。前にも言ったろうが」
「じゃあ、何のために置いてあるんですか?」
「雰囲気だよ。あんた、何度同じことを聞くんだい」
男は黙った。
ババアは三枚の硬貨をテーブルに置いた。
「今日は、易で占ってやるよ」
「易?」
「易経って知らないのかい」
「名前くらいは……」
「名前を知ってるだけじゃ、知らないのと大して変わらないねえ」
ババアは、硬貨を手のひらに包んだ。
「いいかい。易経ってのはね、昔から伝わる、物事の変化を読み解くための考え方だよ。未来をなんでも当てる魔法じゃない」
「はい」
「自然の働きを、八つの象徴で表す。それが八卦だ」
ババアは、指を一本ずつ折っていった。
「天、沢、火、雷、風、水、山、地。八つだよ」
「それを、どうするんですか?」
「八卦を上下に重ねるんだ。上と下の組み合わせで、六十四通りになる。それが六十四卦ってもんさ」
男は、少し考えた。
「六十四通りもあるんですか」
「世の中の悩みが、六十四種類しかないと思ってるのかい?」
「いえ、そういう意味では……」
「だったら、黙って聞きな」
ババアは硬貨を三枚、両手で包んだ。
「これから硬貨を投げて、一本ずつ線を作る。六回やれば、六本の線ができる。下から順に積み上げて、ひとつの卦にするんだよ」
「線ですか?」
「切れ目のない線が陽。真ん中が切れている線が陰。陽と陰を組み合わせて、卦を作るんだ」
ババアは紙に、一本の線と、真ん中が切れた線を書いた。
「難しく考えるんじゃないよ。まずは、出たものを見るんだ」
硬貨を三枚、手の中で転がす。
男は、じっと見ていた。
一度目。
ババアは硬貨を確かめ、紙に切れ目のある線を書いた。
二度目も、切れ目のある線。
三度目は、切れ目のない線。
四度目は、切れ目のある線。
五度目は、切れ目のない線。
六度目も、切れ目のない線だった。
ババアは、下から順に六本の線を並べた。
「これで、卦ができたよ」
男は紙をのぞき込んだ。
「……これが、私の占いの結果ですか?」
「そうだよ」
「この線に、何か意味があるんですか?」
「あるから、占いになるんだろうが」
ババアは、紙の上半分を指で示した。
「下の三本が、山を表す艮。上の三本が、風を表す巽。下が山で、上が風。これを風山漸という」
「ふうざん……ぜん?」
「風山漸。六十四卦の五十三番目だよ」
男は、聞き慣れない名前を口の中で繰り返した。
「それは、どういう意味なんでしょう?」
ババアは、少しだけ顔を上げた。
「漸って字はね、少しずつ進むって意味があるんだよ」
「少しずつ……」
「山の上に木が生える。木は、一晩で大きくなるわけじゃない。根を張って、枝を伸ばして、時間をかけて育つ。風山漸は、そういう姿を表す卦なんだ」
男は、紙を見つめた。
「でも、私は会社を辞めるかどうかを知りたいんです」
「聞いてたよ」
「辞めてもいいんでしょうか。それとも、辞めないほうがいいんでしょうか」
「せっかちな男だねえ。六本の線を作るのに、六回も硬貨を投げたんだよ。少しは待ちな」
男は口を閉じた。
ババアは、紙の脇に置いてあった古い本を開いた。
「風山漸の卦辞には、こうある」
ババアは、ゆっくりと読んだ。
「『漸は、女の帰ぐに吉なり。貞しきに利ろし』」
「……女の、何ですって?」
「女が嫁ぐのに吉、という意味だよ。昔の言葉だからね。今の仕事の悩みに、そのまま当てはめるわけにはいかない」
「では、私には関係がないんでしょうか?」
「そう決めつけるのも早いねえ」
ババアは本を閉じた。
「昔の結婚は、本人だけの気持ちで、明日から始めますってわけにはいかなかった。家と家の話もある。順序もある。準備もいる。そうやって、段階を踏んで進むことが大事だと読めるんだよ」
「順序を踏む……」
「そう。卦の名前も、山の上に木が育つ姿も、そこにつながる。急いで結論を出すんじゃなく、順序を踏んで進む。これが、この卦を読むときの大事なところさ」
男は、しばらく考えていた。
「つまり、会社を辞めるなということですか?」
「誰がそんなことを言ったんだい」
「でも、少しずつ進めということなら、今の会社にいたほうが……」
「今の会社にいながら、転職先を探すことだってできるだろう?」
男は顔を上げた。
「……あ」
「辞めるか、辞めないか。あんたの頭の中には、その二つしかないのかい?」
「いえ……」
「転職先を探す。会社の業績を調べる。自分の仕事を振り返る。いざ辞めるとなったら、生活費がどれくらい要るか計算する。そういう段取りを踏んでから決める手もあるだろう」
男は、何も言わなかった。
ババアは、もう一度、紙の六本の線を見た。
「ただし、これは易の読み方のひとつだよ。卦が出たからって、あんたの会社の業績がよくなる保証はない。転職が成功する保証もない」
「……そうなんですね」
「当たり前だろ。易は、あんたの会社の決算書まで読んでくれないよ」
男は、思わず笑った。
「そうですよね」
「それに、あんたが何もしなければ、何も変わらないかもしれない」
「はい」
「反対に、今の会社に残るのが正しいとも限らない。ひどい会社なら、順序を踏んで辞める準備をすることだって必要だよ」
男の表情が、少し変わった。
「先生、私、ずっと辞めるか残るかだけを考えていました」
「そうかい」
「辞めるなら、今すぐ決めなきゃいけないと思っていたんです。残るなら、会社を信じるしかないと思っていました」
「ずいぶん極端だねえ」
「はい……」
「会社を信じるのと、自分の生活を守るのは、別の話だろう?」
男は、黙ってうなずいた。
「まずは転職先を探してみます。今の会社の状況も、もう少し調べます。それから考えます」
「好きにしな」
「先生、ありがとうございました」
男は立ち上がり、頭を下げた。
戸口まで行ったところで、ふと思い出したように振り返った。
「先生。風山漸って、いい卦なんですか?」
ババアは、ガラス玉を布で拭いていた。
「物事を少しずつ進める。順序を踏む。そういう読み方ができる卦だよ」
「じゃあ、私の未来は明るいんでしょうか?」
「知らないよ」
男は苦笑した。
「そこは、教えてくれないんですね」
「会社の未来も、あんたの未来も、あたしが保証するもんじゃないからね」
「……はい」
男は、今度こそ店を出ていった。
ババアは、紙に書いた六本の線を見た。
風山漸。
山の上に木が育つ。
一晩で大木にはならない。
「……まあ、あたしの飯だって、一晩じゃ炊けないけどねえ」
電子レンジの扉を開け、パックごはんを入れる。
温めのボタンを押した。
今日も、未来は見えなかった。
ただ、易は立てた。




