第一話 猫を飼わなくてよかったですね
『大当たり! クソばば占い師』
第一話 猫を飼わなくてよかったですね
「お客さん、猫を飼っていなくて、よかったですねえ」
婆さんは、紫色の布をかけた机の向こうで、そう言った。
向かいに座る男は、眉をひそめた。
「どういう意味です?」
「飼っていたら、とんでもない不幸に遭っていましたよ」
男の視線が、机の上の水晶玉に落ちた。
婆さんは、水晶玉を磨くふりをした。
「猫を見て、怖いと思うことがあるでしょう。目を見ていると」
「……あります」
男は、少し考えてから答えた。
「じっと見つめられると、何を考えているのか、わからなくて」
「そうでしょうとも」
婆さんは、深くうなずいた。
「でも、大丈夫なんです。猫の方が、あなたを心配しているんですよ」
「私を?」
「ええ。この人、大丈夫かなあ、って」
男は吹き出した。
婆さんも笑った。
ひとしきり笑ったあと、男はなぜか、少し安心した顔になった。
「先生、実はですね……」
婆さんは黙って、男の顔を見た。
男は、妻の話を始めた。
最近、妻が妙によそよそしいこと。何を尋ねても「別に」としか答えないこと。昨夜など、食卓で向かい合っているのに、妻はスマートフォンから一度も目を上げなかったこと。
婆さんは、途中で口を挟まなかった。
男が話しているあいだ、婆さんは何度か、男の手元に目を落とした。男は結婚指輪を、親指で何度もなぞっていた。
話が途切れた。
「先生。妻は、私に隠し事をしているんでしょうか」
婆さんは、すぐには答えなかった。
男の靴のつま先は、出口の方を向いていた。
帰りたいのか。それとも、いつでも逃げられるようにしているのか。
婆さんには、わからなかった。
ただ、男はまだ帰らなかった。
「あなたはね」
婆さんは、声を落とした。
「奥さんが何かを隠していることより、奥さんが何も話してくれなくなったことの方が、つらいんじゃありませんか」
男は顔を上げた。
しばらく、何も言わなかった。
それから、小さくうなずいた。
「……そうです。そうなんです」
婆さんは、心の中でそろばんを弾いた。
当たったかどうかは、まだわからない。
だが、男は自分の言葉で、自分の悩みを説明し始めた。
それで十分だった。
「先生、どうすればいいんでしょう」
婆さんは、水晶玉に手を置いた。
「それを知るには、もう少し詳しく視る必要がありますねえ」
男は財布を取り出した。
婆さんは、にっこり笑った。
猫は飼っていない。
不幸も、まだ起きていない。
それでも男は、ここへ来る前より、ずっと深刻な顔をして帰っていった。
婆さんは、受け取った札を数えた。
「……さて、次のお客は、どんな人かねえ」
水晶玉には、何も映っていなかった。
婆さんは、夫婦関係の真相を見抜いたわけではありません。
男が自分で話したことを、別の言葉で返しただけです。
それでも男は「わかってもらえた」と感じた。
次は、この男が帰ったあと、婆さん自身の正体を少し見せるのか、それとも二人目の客で、さらにとんでもない腕前を見せるのか。




