第十七話 フェルゼンですよね?
第十七話 フェルゼンですよね?
その写真が、いつ、誰によって撮られたのか。
ババアは知らなかった。
内幸町の歩道を歩いているところを、誰かがスマートフォンで撮影したらしい。
白髪交じりの髪。少し猫背の背中。口元には、いかにも機嫌の悪そうな皺。
写真だけ見れば、どこにでもいる年寄りだった。
ところが、写真を見た人間の中に、そう思わなかった者がいた。
数日後。
占いの部屋に、ひとりの女性がやってきた。
五十代の終わりくらいだろうか。きちんとした服装で、少し緊張した面持ちだった。
ババアは椅子を指した。
「座んな」
女性は腰を下ろしたが、なかなか口を開かなかった。
「占い、してほしいんだろ?」
「あの……」
「なんだい」
女性は、ババアの顔をじっと見た。
「フェルゼンですよね?」
ババアの手が止まった。
ほんの一瞬だった。
「は?」
「フェルゼンです。『ベルサイユのばら』の」
「何を言ってんだい、あんた」
「やっぱり……!」
女性は、持っていたバッグからスマートフォンを取り出した。
画面には、例の写真が表示されていた。
「これ、SNSで見たんです。内幸町に、昔の宝塚の男役さんにそっくりな方がいるって。それで……まさかと思って」
「まさかと思ったら、帰りな」
「でも、お顔が……」
「年寄りの顔なんて、みんな似たようなもんだよ」
「違います!」
女性の声が、思いがけず大きくなった。
「私、覚えているんです。雪乃ツカサさんのフェルゼン」
ババアは黙った。
女性は、少し恥ずかしそうに笑った。
「月組の三番手だった頃です。舞台の上に立っていらっしゃるだけで、客席の空気が変わるような方でした」
「大げさだねえ」
「本当です。私、あの頃、いろいろあって……」
女性は言葉を切った。
「家のことも、仕事のことも、うまくいかなくて。毎日、何のために生きているのか、わからなくなっていたんです。でも、あの舞台を観に行く日だけは、楽しみだったんです」
ババアは、机の上のガラス玉を指で転がした。
「それで?」
「フェルゼンが、王妃を想っている姿を観ていると、胸がいっぱいになって。舞台が終わると、また明日から頑張ろうって思えたんです」
「へえ」
「だから……」
女性は、もう一度、ババアの顔を見た。
「フェルゼンですよね?」
「違うよ」
即答だった。
女性は目を伏せた。
「……そう、ですよね」
「舞台の上の男と、目の前のババアを一緒にするんじゃないよ」
女性は顔を上げた。
ババアは、いつもの不機嫌そうな顔をしていた。
「夢を見せるのが舞台だろ。楽屋まで夢の続きがあると思うんじゃないよ」
「……はい」
「で、今日は何の相談だい。昔の男役に会いに来たんなら、五千円じゃ安すぎるよ」
女性は、思わず笑った。
「すみません。そうですよね。私、何をしに来たんでしょう」
「知らないよ。あんたの頭の中まで、あたしが占えると思うのかい」
女性は少し考えてから、ぽつりと言った。
「私、最近、昔のことばかり思い出すんです」
「昔?」
「若い頃に好きだった歌とか、映画とか。友達と出かけた場所とか。それで、懐かしくて、楽しいんです。でも同時に、なんだか寂しくて」
「戻りたいのかい」
「……わかりません」
「昔に戻ったら、今のあんたはいなくなるよ」
女性は黙った。
「昔のあんたは、昔のあんた。今のあんたは、今のあんただ。どっちが本物ってわけでもないだろ」
「でも、あの頃は……」
「楽しかったんだろ」
「はい」
「今も、楽しいことはあるのかい」
女性は、少し考えた。
「あります。孫もいますし、夫とも、まあ、普通に暮らしています」
「じゃあ、いいじゃないか」
「でも、昔を懐かしむと、今がつまらないみたいで……」
「誰がそんなこと決めたんだい」
女性は、口をつぐんだ。
「昔の舞台が好きだったんだろ。今も好きなんだろ。それで、何が困るんだい?」
女性は、しばらくババアを見つめていた。
やがて、笑いながら目を拭いた。
「……そうですね」
「泣くんじゃないよ。あたしが泣かせたみたいじゃないか」
「すみません」
「謝るくらいなら、泣くんじゃない」
「それは無理です」
「口答えするんじゃないよ」
女性はとうとう声を出して笑った。
帰り際、女性は何度も頭を下げた。
「ありがとうございました」
「礼を言うほどのことはしてないよ」
「でも、私、あの頃のことを思い出してもいいんですね」
「思い出すのに、あたしの許可がいるのかい?」
女性は、また笑った。
「……フェルゼン様、ありがとうございました」
ババアは眉をひそめた。
「だから、違うって言ってるだろ」
女性は、今度こそ部屋を出ていった。
扉が閉まる。
ババアは、しばらくその扉を眺めていた。
それから机の引き出しを開けた。
古い写真が一枚、入っている。
若い女と、男。
写真の中の女は、今のババアとは似ても似つかない顔で笑っていた。
ババアは写真を裏返した。
「……雪乃ツカサ、ねえ」
小さく呟く。
「ずいぶん、昔の名前だよ」
引き出しを閉めた。
スマートフォンでは、あの写真がまだ拡散されていた。
「この人、元タカラジェンヌじゃない?」
「雪乃ツカサさんに似てる」
「フェルゼンを演じていた方では?」
そんな書き込みが、少しずつ増えている。
ババアは知らない。
いや、知っていても、知らないふりをしているのかもしれない。
それは、誰にもわからなかった。
ババアは電子レンジの扉を開け、パックご飯を入れた。
ボタンを押す。
ぶうん、と音がした。
「……まったく。年寄りを、勝手に撮るんじゃないよ」
電子レンジは、何も答えなかった。
それでよかった。




