第十五話 先生、わたし、呪われているんでしょうか
第十五話 先生、わたし、呪われているんでしょうか
男は、三十代半ばだった。
髪はきちんと整えているが、目の下に薄く隈ができている。座るなり、膝の上で両手を組んだ。
「あの、先生。わたし、呪われているんでしょうか」
ババアは、ガラス玉を布で拭いていた。
「なんだい、いきなり」
「ここ最近、悪いことばかり起きるんです」
「へえ」
「仕事で大きな失敗をしました。恋人には振られました。おまけに、車まで故障して……」
「そりゃ、災難だったねえ」
「それだけじゃないんです。先週は財布を落としましたし、一昨日は階段で転びました」
「骨は折れたのかい?」
「いえ、打ち身だけです」
「なら、よかったじゃないか」
男は、困ったような顔をした。
「そういう問題じゃないんです」
「じゃあ、どういう問題なんだい」
「何か、悪いものがついているんじゃないかと」
ババアは、手を止めた。
「悪いもの?」
「はい。知り合いに言われたんです。お祓いに行ったほうがいいんじゃないかって」
「そいつは、霊媒師かい?」
「いえ、会社の同僚です」
「じゃあ、そいつに聞いても、わからないだろうねえ」
男は、黙った。
ババアは、ガラス玉を窓際に置いた。午後の日差しを受けて、玉の中に小さな光が浮かんだ。
男は、それをじっと見つめた。
「……先生。その玉で、わかるんですか?」
「何が?」
「わたしが呪われているかどうかです」
「さあねえ」
「さあねえって……」
「見てわかるんなら、医者はいらないよ」
男は、思わず口をつぐんだ。
「先生、占い師ですよね?」
「そうだよ」
「だったら、占ってくださいよ」
「何をだい」
「わたしが呪われているかどうか!」
ババアは、男を見た。
「あんた、呪われているって言ってほしいのかい?」
「え?」
「それとも、呪われていないって言ってほしいのかい?」
男は、答えられなかった。
「どっちなんだい」
「……呪われていない、と言ってほしいです」
「じゃあ、あたしがそう言ったら、安心するのかい?」
「それは……」
「安心して、明日から普通に暮らせるのかい?」
男は、膝の上で組んだ手に力を込めた。
「……わかりません」
「だろうねえ」
ババアは、ガラス玉を手に取った。
「仕事で失敗した。女に振られた。車が壊れた。財布を落とした。階段で転んだ」
ひとつずつ、指を折って数える。
「ずいぶん忙しい人生だねえ」
「笑いごとじゃありませんよ」
「笑ってないよ」
ババアは、真顔だった。
「で、仕事の失敗は、何があったんだい?」
男は、少し身を乗り出した。
「取引先への報告が遅れて、会社に損害を出しました。わたしの確認不足でした」
「女に振られたのは?」
「仕事ばかりで、彼女との約束を何度も破ってしまって……」
「車は?」
「古かったんです。修理代が高くて」
「財布は?」
「電車の中で落としたみたいです」
「階段は?」
「急いでいて、足を踏み外しました」
ババアは、うなずいた。
「なるほどねえ」
男は、期待するように顔を上げた。
「何かわかりましたか?」
「いや、別に」
「……先生!」
「何を怒ってるんだい。あんたが話したことを聞いただけだよ」
男は、深く息を吐いた。
「でも、こんなに続くなんて、普通じゃないでしょう」
「普通って、何だい」
「不幸が、こんなに続くことですよ」
「不幸は、順番に来るって決まりでもあるのかい?」
男は口を開きかけたが、何も言えなかった。
ババアは、ガラス玉を元の場所に戻した。
「ひとつ聞くけどね。あんた、呪われているって考えると、何か都合がいいのかい?」
「都合がいい?」
「仕事の失敗も、女に振られたのも、車が壊れたのも、財布を落としたのも、全部、呪いのせいにできるだろう」
男の顔がこわばった。
「……そんなつもりはありません」
「そうかい」
ババアは、それ以上、何も言わなかった。
男はしばらく黙っていた。
やがて、組んでいた手をほどいた。
「わたし、失敗したことを、誰かのせいにしたかったのかもしれません」
「誰かって、誰だい?」
「……わかりません。運とか、呪いとか」
「運に文句を言ったって、返事は来ないからねえ」
男は、苦笑した。
「先生は、厳しいですね」
「そうかい?」
「もう少し、優しい言葉をかけてくれてもいいのに」
「優しい言葉が欲しいんなら、そう言えばいいじゃないか」
男は、目を伏せた。
「……そうですね」
少し間を置いて、顔を上げた。
「先生。わたし、これからどうしたらいいでしょう」
ババアは、男を見た。
「知らないよ」
「また、それですか」
「何度聞いたって、知らないもんは知らないねえ」
男は、今度は怒らなかった。
「……そうですよね」
立ち上がり、財布を取り出す。
「ありがとうございました」
ババアは、差し出された代金を受け取った。
「はいよ」
男は戸口で振り返った。
「先生。あの玉、本当に何も見えないんですか?」
ババアは、ガラス玉を持ち上げた。
「よく見えるよ」
男の目が輝いた。
「本当ですか!」
「ほこりがね」
ババアは、玉を布で拭いた。
「毎日、拭いてるんだけどねえ。すぐ、つくんだよ」
男は、吹き出した。
店を出るとき、肩の力が少し抜けていた。
呪いが解けたわけではない。
そもそも、呪われていたのかどうかもわからない。
ただ、明日は取引先に連絡しようと思った。
それから、車の修理代を見積もってもらおう。
恋人に連絡するかどうかは、まだ決められなかった。
ババアは、男の足音が遠ざかるのを聞いてから、ガラス玉を机に置いた。
「呪いねえ……」
しばらく考えて、肩をすくめた。
「そんなもんが見えたら、あたしだって、もうちょっと楽に暮らしてるよ」
そして、パックご飯を電子レンジに入れた。
今日も、未来は見えなかった。




