第十四話 人に、感謝されたいんです
第十四話 人に、感謝されたいんです
女は、五十歳くらいだった。
地味な紺色のブラウスに、きちんとしたスカート。膝の上に置いたバッグを、両手でしっかり押さえている。
「わたし、人に感謝されたいんです」
ババアは、湯呑みを置いた。
「そりゃ、感謝されりゃ、気分はいいだろうね」
「そういうことじゃなくて」
女は、少し慌てたように言った。
「わたし、ずっと人のためにやってきたんです。職場でも、家庭でも。困っている人がいたら助けて、誰かが嫌がる仕事も引き受けて。母の介護だって、わたしが中心になってやりました。兄弟は、口ばっかりで」
「へえ」
「でも、誰も、ありがとうって言わないんです」
ババアは、女の顔を見た。
「そりゃ、腹が立つねえ」
女は、ほっとしたように息を吐いた。
「そうでしょう? わたし、間違ってませんよね?」
「知らないよ」
女の顔から、安堵が消えた。
「……え?」
「あんたが何をしてきたか、あたしゃ、見てないからね」
「でも、今、腹が立つって」
「腹が立つだろうって言ったんだよ。間違ってないなんて、言ってない」
女は黙った。
ババアは、急須から湯呑みに茶を注いだ。
「で、あんたは、誰に感謝されたいんだい?」
「誰にって……」
「職場の人間かい。兄弟かい。それとも、世間様かい」
「……家族、ですかね」
「家族に、何て言ってほしいんだい?」
女は、バッグの持ち手を握り直した。
「ありがとう、って」
「何に?」
「何にって……いろいろです。母のことも、家のことも、みんなが嫌がることを、わたしがやってきたんですから」
「それで?」
女は、顔を上げた。
「それでって?」
「ありがとうって言われたら、どうなるんだい?」
女は答えなかった。
しばらくして、小さな声で言った。
「……報われる気がします」
「何が?」
「わたしが、やってきたことです」
ババアは、うなずきもしなかった。
女は、ぽつりぽつりと話し始めた。
母が亡くなったあと、兄から「いろいろ世話になったな」と一度だけ言われたこと。職場で、同僚の仕事を代わりに引き受けたのに、上司からは何も言われなかったこと。夫に家事を頼んでも、「気づいたほうがやればいい」と返されたこと。
「わたしがやらなかったら、誰もやらないんです」
「じゃあ、やらなきゃいいじゃないか」
女は、目を丸くした。
「そんなこと、できません」
「なんで?」
「だって、困るじゃないですか」
「誰が?」
女は口を開きかけて、閉じた。
ババアは、茶をすすった。
「困るのは、あんたかい。それとも、あんたが世話を焼いてる連中かい」
「……両方です」
「へえ。じゃあ、あんたがやるのをやめたら、誰が困るんだい?」
女は、しばらく考えた。
「家族も、職場の人も……困ると思います」
「思うだけかい?」
「……実際に、困るでしょうね」
「そりゃ、困るかもしれないねえ」
ババアは、あっさり言った。
「でも、困ったら困ったで、考えるんじゃないのかい」
女は、何も言わなかった。
「それとも、あんたがいなきゃ、何にもできない連中なのかい?」
「そんなことは……」
言いかけて、女は止まった。
夫は、料理をしないわけではない。やろうと思えばできる。職場の同僚だって、仕事を任せれば何とかする。兄弟も、母のことを何ひとつできなかったわけではない。
ただ、自分がやったほうが早かった。
自分がやれば、誰にも迷惑をかけずに済んだ。
そう思って、ずっと引き受けてきた。
「……わたしが、勝手にやっていたんでしょうか」
「さあねえ」
ババアは、湯呑みを置いた。
「頼まれてやったのか、自分からやったのか。あんたの話じゃ、よくわからないね」
女は、うつむいた。
「でも、感謝くらい、してくれたって……」
「そりゃ、そう思うのも自由だよ」
ババアは、鼻をすすった。
「ただねえ。感謝しろって言ったことは、あるのかい?」
女は顔を上げた。
「そんなこと、言えませんよ」
「なんで?」
「だって、恩着せがましいじゃないですか」
「へえ。感謝されたいけど、感謝しろとは言いたくない。ずいぶん難しいねえ」
女は、苦笑いをした。
「……そうですね」
初めて、少しだけ表情が和らいだ。
「わたし、ありがとうって言ってほしかったんです。自分がやってきたことは、無駄じゃなかったって、思いたかったのかもしれません」
ババアは、何も言わなかった。
女はバッグを膝から下ろした。
「帰ったら、夫に話してみます。家のこと、全部わたしがやるのは、もう無理だって」
「ふうん」
「兄にも、母のことで、わたしがどれだけ大変だったか、話してみます。今さらですけど」
「好きにしな」
女は立ち上がった。
「ありがとうございました」
ババアは、手を出した。
女は一瞬、戸惑った。
「……あ、お代ですね」
「ほかに何があるんだい」
女は笑った。
代金を置き、頭を下げて出ていった。
戸が閉まった。
ババアは、硬貨を数えた。
「感謝ねえ」
誰に感謝されたいのか。
何に感謝されたいのか。
そんなこと、本人にしかわからない。
ババアは、立ち上がって電子レンジの扉を開けた。
今夜も、パックご飯と梅干し。
誰も、ありがとうとは言わない。
だが、別に困らなかった。
「……さて、飯にするかねえ」




