第十三話 いい人を、やめたいんです
第十三話 いい人を、やめたいんです
「先生、いい人をやめたいんです」
男は、店に入ってくるなり言った。
四十歳くらい。くたびれた背広に、少し曲がったネクタイ。顔には疲れがにじんでいた。
ババアは、男を見上げた。
「やめりゃいいじゃないか」
「……そんな簡単に、いきませんよ」
「なんだい。やめたいんだろ」
「そうなんですけど」
「じゃあ、何が困るんだい」
男は、ため息をついた。
「人から頼まれると、断れないんです」
「何を?」
「仕事を手伝ってくれとか、飲み会に付き合ってくれとか。休日に引っ越しを手伝ってくれって言われたり」
「へえ。便利に使われてるねえ」
「……そうなんです」
「嫌なのかい」
「嫌です」
男は即答した。
「だったら、断りゃいい」
「でも、断ったら嫌われるじゃないですか」
「嫌われたくないのかい」
「そりゃ、そうですよ」
「誰にでも?」
男は口をつぐんだ。
「……できれば、みんなに好かれたいです」
「そりゃ、忙しいねえ」
ババアは湯呑みを置いた。
「で、あんた。みんなに好かれるために、何をしてるんだい」
「頼まれたことを引き受けてます」
「それで、みんな好いてくれるのかい」
「少なくとも、感謝はされます」
「感謝されるのと、好かれるのは同じかね」
男は黙った。
「この前も、同僚に仕事を頼まれたんです。本当は自分の仕事で手いっぱいだったのに、引き受けてしまって」
「それで?」
「残業になりました。家に帰ったら、妻に怒られました」
「そりゃ、そうだろうね」
「でも、同僚には助かったって言われたんです」
「よかったじゃないか」
男は、顔をしかめた。
「よくありませんよ。なんで僕ばっかり、こんな目に遭うんだって」
「なんで引き受けたんだい」
「断れなかったからです」
「誰に断るなって言われたんだい」
「……誰も」
「へえ」
ババアは、男の顔を眺めた。
「じゃあ、あんたが自分で引き受けたんだね」
男は、むっとした。
「先生、僕を責めてるんですか」
「責めちゃいないよ。あんたが何をしたか聞いてるだけさ」
男は黙り込んだ。
しばらくして、ぼそりと言った。
「……断ったら、冷たい人間だと思われそうで」
「誰に?」
「周りに」
「断ったことがあるのかい」
「……あります」
「そいつは、あんたを嫌いになったのかい」
男は考え込んだ。
「一度、断ったことがあります。でも、次の日には普通に話しかけてきました」
「そうかい」
「……あれ?」
男は、自分でも不思議そうな顔をした。
「断っても、別に何も変わらなかったんですね」
「そういうこともあるんだろうねえ」
「でも、やっぱり怖いです」
「そうかい」
ババアは、それ以上、何も言わなかった。
男はしばらく座っていたが、やがて立ち上がった。
「ありがとうございました」
「何も答えてないよ」
「はい。でも、次に頼まれたとき、少し考えてみます」
「何を?」
「本当に引き受けたいのかどうか」
「そうかい」
男は料金を払って出ていった。
ババアは、引き出しに金をしまった。
「いい人ねえ」
鼻で笑った。
「自分が嫌になるまで、いい人をやってりゃ世話ないよ」
そう言って、湯呑みを片づけた。
次の客が来るまで、まだ少し時間がある。
ババアは時計を見た。
「……飯には、まだ早いねえ」




