第九話 あいつから、連絡が来ますか
第九話 あいつから、連絡が来ますか
「先生、あいつから連絡が来るでしょうか」
男は、五十を少し過ぎたくらいだった。
背広の襟は少しよれていたが、靴は磨かれていた。仕事帰りなのだろう。膝の上に置いたスマートフォンを、何度も裏返している。
ババアは、男を見た。
「誰からだい」
「友人です。昔からの」
「男かい、女かい」
「男です」
「惚れてんのかい」
「馬鹿言わないでくださいよ」
男は苦笑した。
「もう四十年近い付き合いです。学生時代からの友人でね」
「へえ。長いねえ」
「それが、ちょっとしたことで喧嘩になりまして」
「ちょっとしたことねえ」
ババアは、湯呑みを置いた。
「何があったんだい」
男は、友人が自分の話をまともに聞いてくれなかったこと、昔の失敗を持ち出されたこと、つい腹を立てて言い返したことを話した。
「向こうも、ひどいことを言ったんです。私だって、黙っていられませんよ」
「そりゃ、そうかもしれないね」
「でも、あいつから連絡が来ないんです」
「それで?」
「仲直りしたいんです」
「じゃあ、連絡すりゃいいじゃないか」
男は、すぐに顔を上げた。
「いや、それは……」
「何だい」
「こちらから謝るのは、違うと思うんです」
ババアは、ふん、と鼻を鳴らした。
「仲直りはしたい。でも謝るのは嫌。あいつから連絡してほしい。そういうことかい」
「……言い方は悪いですが、まあ、そうです」
「占いで、あいつの指を動かしてやろうか」
「そんなことができるんですか?」
「できるもんかい。できたら、あたしは今ごろ大金持ちだよ」
男は笑った。
しかし、すぐに真顔に戻った。
「先生。私が謝ったら、あいつは、自分が正しかったと思うでしょう」
「そうかい」
「そうなったら、今後もずっと、こちらが折れなきゃならなくなる」
「今までも、そうだったのかい」
「……いや」
男は言葉を止めた。
「今までは、あいつのほうから謝ってくることもありました」
「今回は?」
「今回は、ありません」
「どうしてだろうねえ」
「向こうも意地になっているんでしょう」
「そうかもしれないね」
ババアは、それ以上、何も言わなかった。
男は、しばらく黙っていた。
「……私にも、悪いところはあったと思います」
「へえ」
「言いすぎたことは、わかっています」
「じゃあ、謝りゃいい」
「でも、向こうだって……」
「向こうの悪いところは、あいつが考えることだよ」
男は口を閉じた。
ババアは、机の上の水晶玉を指で押した。
玉が、ころりと転がった。
「ねえ、あんた」
「はい」
「仲直りしたいのかい。それとも、勝ちたいのかい」
男は、答えなかった。
「どっちも、なんて言うんじゃないよ。どっちも欲しがって、両方なくすことだってあるんだからね」
「……」
「四十年の付き合いなんだろ」
「はい」
「その四十年と、今回の喧嘩と、どっちが大事なんだい」
男は、スマートフォンを見た。
画面には、友人との最後のやり取りが残っていた。
最後に送ったのは、自分の言葉だった。
『もう二度と連絡してくるな』
男は、小さく息を吐いた。
「……あれは、言いすぎでした」
「そうかい」
「でも、あいつも、私のことを傷つけたんです」
「そりゃ、あんたが傷ついたことまで、なかったことにしなくていいよ」
男は顔を上げた。
「謝ったら、許さなきゃいけないんでしょうか」
「誰がそんなこと決めたんだい」
「え?」
「自分が悪かったところを謝るのと、相手の言ったことを全部許すのは、別の話だろうが」
男は、何度かうなずいた。
「……そうですね」
「それに、謝ったからって、向こうがすぐ許してくれるとも限らない」
「はい」
「それでも、謝りたいのかい」
男は、スマートフォンを握りしめた。
「……はい」
ババアは、初めて少しだけ笑った。
「だったら、占いなんかしてる場合じゃないねえ」
男は、画面を開いた。
しばらく文字を打っては消し、また打った。
やがて、スマートフォンを机に置いた。
「先生。これでいいと思いますか」
「読んでみな」
男は、画面を見ながら言った。
「『この前は、言いすぎた。悪かった。お前の言ったことには、まだ納得できない部分もある。でも、あんな別れ方をしたままなのは嫌だ。一度、話せないか』」
ババアは、黙って聞いていた。
「……送ってみます」
「好きにしな」
男は、送信ボタンを押した。
それから、しばらく画面を見つめた。
「返事が来るでしょうか」
「知らないよ」
「ですよね」
男は笑った。
今度は、少し肩の力が抜けていた。
料金を払って、男は店を出た。
ババアは、閉まった戸を眺めていた。
「……馬鹿だねえ」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
机の引き出しを開ける。
古い写真が、奥にあった。
若い頃の自分と、隣に立つ男。
写真の男は、笑っていた。
ババアは写真を手に取らなかった。
「一言くらい、言えばよかったのかねえ」
声は、店の中に消えた。
そのとき、戸が開いた。
「先生、予約してないんですけど」
若い男が、顔をのぞかせた。
「予約なんかいらないよ。金さえ払えばね」
ババアは引き出しを閉めた。
「で、何を占ってほしいんだい」
「仕事のことなんですけど……」
「辞めたいのかい」
「えっ、どうしてわかったんですか?」
「顔に書いてあるんだよ。さあ、座んな」
ババアは水晶玉を机の中央に置いた。
今日もまた、肝心なことには答えない。




