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婚約破棄された代筆令嬢は、満員の寺で恋の俳句を売る  作者: 乾為天女


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第9話 盗まれた帳面

 秋の風は、紙の角から先に冷やしていく。


 月暁寺の門前で売る札も、薄紅や若草ばかりでは動かなくなっていた。恵美子は朝のうちに、桔梗色の紐、柿渋を思わせる茶の台紙、銀ではなく鈍い錫色の箔を選び分ける。恋の言葉ひとつでも、春と秋では手触りが違う。浮かれた願いは少し減り、その代わり、言いそびれた詫びや、離れて暮らす相手の無事を祈る言葉が増えた。


 「秋って、みんな急にしおらしくなるよねえ」


 通子が紐の束を肩にかけたまま言った。


 「夏に勢いで喧嘩したぶん、秋に謝るのです」

 「言い方が的確で嫌だ」

 「事実でしょう」


 そんなやりとりをしながら、恵美子は作業部屋の机に茶色の帳面を置いた。角の擦れた、厚みのある一冊である。今は仕事で使う帳面とは別に、もう癖のように持ち歩いていた。昔の没案、客に出さなかった言い回し、朝の夢の切れ端みたいな文句。誰にも見せぬまま書き溜めたものが、そこには詰まっている。


 とりわけ最初の頃の頁には、徳博の店にいた時代の文案が多い。

 あの一節も、そこにある。


 いつもあなたの夢を見ている。


 見返すたび、胸の奥に苦いものが残る。

 けれど今は、それを捨てられない。あの頃の自分が確かに書いた証拠であり、あの頃の自分を今の自分が見捨てないための証でもあった。


 「恵美子、筆洗いの水、替えてくる」


 日依が桶を抱えて立ち上がる。恵美子は頷き、机の引き出しに帳面を入れた。鍵はついていない。寺の借り部屋に立派な金具などないし、これまでここで盗られるものなどないと思っていた。


 それが油断だと知るまで、ほんの半刻もかからなかった。


 午の鐘が鳴る少し前、恵美子は表の売り場へ呼ばれた。夫婦で来た客が、仲直りの札に添える一言をどうしても決めきれないという。通子が「あんた向きの困り方」と笑って手招きした。


 話を聞き、二人の言葉を整え、相手の面子を潰さず、それでも謝罪が逃げにならない一文に直す。それに思ったより時間を取られた。戻ってきた時には、回廊に射し込む日差しが少し傾いていた。


 戸は閉まっていた。

 貼り紙も、いつものようにそこにある。


 ノックはしないで


 だが、違和感は些細なところに出る。

 戸を開けた瞬間、恵美子の目は机の右袖へ向いた。引き出しが、指一本ぶんだけ開いている。


 止まった。


 音もなく、足の裏から冷えが上がってくる。


 恵美子は机へ近づき、引き出しを開けた。

 筆入れ、紙包み、買い置きの蝋糸、小袋に分けた銭。ある。

 帳面だけが、なかった。


 「……え」


 喉から漏れた声は、自分のものとは思えないほど薄かった。もう一度、引き出しをかき回す。机の下、文机の脇、重ねた紙の間。ない。あるはずの厚みだけが、世界からきれいに抜け落ちていた。


 恵美子は立ち尽くしたまま、何も考えられなくなった。


 あれがなければ、徳博の札に使われた文句の元が示せない。

 それだけではない。誰にも渡さなかった没案も、書き損じも、夜更けの弱音まじりの文もある。読まれたくないものほど、あの帳面には挟まっている。


 「恵美子?」


 水桶を抱えて戻ってきた日依が、恵美子の顔を見て立ち止まった。桶の水が小さく揺れる。


 「どうしました」

 「帳面が」

 「帳面?」

 「ないの。ここに入れていたのに」


 日依は桶を床へ置き、すぐ引き出しを覗き込んだ。余計な慰めを口にせず、まず周りを確認する。そういうところがありがたい。


 「朝はありましたよね」

 「ありました。さっき、客のところへ行く前に……」

 「部屋へ入れた人を思い出せますか」

 「今日は、わたしと、日依と、通子と……」


 そこまで言って、恵美子は首を振った。

 「違う。人の出入りはもっとあったはず。紙屋、寺男、虎哲さんも午前に一度」

 「では、順に潰しましょう」


 日依は静かに言った。隆冶の言い方に少し似ていて、そのことがかえって恵美子の足を地面へ戻した。


 通子を呼ぶ声が、思いのほか大きく出た。

 数息後、通子が駆け込んでくる。


 「どうしたの、顔色やば――って、何、何かあった?」

 「帳面が盗られました」


 日依が先に告げると、通子の目が丸くなった。

 「はあ!? あの茶色いやつ!?」

 「はい」

 「誰がそんな――いや、分かった、叫ぶ前に走る」


 通子は一瞬で踵を返しかけ、また戻る。

 「で、どこまで見た? 紙屋? くず紙買いの爺さん? 古物の屋台?」

 「まだです」

 「じゃ、あたし、町側まわる。ああいうの、証拠じゃなくても紙として売られる前に押さえないと」


 言うやいなや、通子はもう廊下を駆けていた。


 その勢いと入れ違いに、虎哲が戸口へ顔を出す。

 「通子が鬼みたいな顔で飛んでったが、何だ」

 「帳面がなくなりました」

 「……いつからだ」

 「半刻ほど前から今までの間だと思います」


 虎哲の顔つきが変わった。ふざけた色が消え、現場を見る目になる。


 「窓は」

 「閉まっています」

 「戸の傷は」

 「見ていません」

 「見る」


 短く言って、虎哲は敷居に膝をついた。戸の桟、建付け、窓の留め具、足元の砂。大工の息子らしく、物がどう動いたかを人より先に拾う。


 「外からこじ開けた感じはないな。普通に開けて入ってる。ここ、昼は鍵ないだろ」

 「はい」

 「なら、貼り紙見て遠慮するような奴は最初からやらん」


 そう言って立ち上がると、虎哲は恵美子を見る。


 「町の抜け道と河原側、俺が当たる。紙を盗る奴は、燃やすか、売るか、渡すかだ。持ったままうろつくと嵩張る」

 「お願いします」

 「礼はあと。今は時間だ」


 その言い方まで、どこか隆冶に似ていて、恵美子は胸の奥がぎり、と痛んだ。

 似ているのではなく、ここへ集まってくる人たちが、困った時にまずやることを知っているのだろう。


 だが、恵美子の身体は、頭ほどには立ち直ってくれなかった。

 机の前に立つだけで、膝が少し震える。


 もしあれが徳博の手へ渡ったら。

 都合の悪い頁だけ抜かれ、日付を消され、こちらの証拠ごと握り潰されるかもしれない。

 あるいは逆に、他人に読ませて笑うかもしれない。

 あの人なら、そのどちらもやる。


 戸の外で足音が止まり、低い声がした。


 「隆冶です。入ってもよろしいですか」


 貼り紙を守る声だった。


 恵美子は返事をする前に、喉の奥が熱くなるのを感じた。

 「……どうぞ」


 隆冶が入ってくる。秋の外気を少しまとったまま、部屋の様子をひと目で見た。開いた引き出し、床へ置かれた桶、青ざめた恵美子と、状況を整理している日依。


 「通子さんから途中まで聞きました。盗難ですね」

 「はい」

 「盗られたのは、茶色の帳面一冊」

 「はい」

 「最後に確認した時刻は」

 「午の鐘の少し前です」

 「その後、この部屋を空けたのは」

 「わたしが表へ。日依は水場へ」

 「帳面の重要性を知っていた者は」


 問われるたび、恵美子の頭の中が線で結ばれていく。

 ただ怖がるだけではなく、思い出す順が与えられる。ありがたくて、悔しかった。こんな時まで一人で立てない自分が情けない。


 「徳博は、たぶん知っています」


 やっとそれだけ言うと、隆冶は小さく頷いた。


 「私もその可能性を高く見ています。ですが、先に足を使いましょう。憶測を証拠の前へ出すと逃げられる」


 彼は部屋の中央で振り返り、日依へ目を向けた。

 「寺内の出入りで、見慣れない顔を聞けますか」

 「はい」

 「無理に問い詰めず、見た時間だけを集めてください」

 「分かりました」


 日依が出ていくと、隆冶は廊下へ一歩出て、待機していた若い役人へ指示を飛ばした。寺門、河原、古物商、紙問屋。声は低いのに、走るべき者がすぐ分かる言い方だった。


 恵美子は机の縁を握ったまま、その背を見ていた。


 「恵美子さん」


 呼ばれ、はっとする。

 「はい」

 「あなたは私と一緒に来てください」

 「どこへ」

 「調書の前に、まず話を整理する部屋へ。盗られた物の特徴と、中に何があったかを記録します」

 「中身まで……」


 思わず、声が細くなる。


 見られたくない頁がある。

 書いた時の自分ごと晒すようで、息が詰まる。


 隆冶は少し間を置いてから言った。

 「全部を読み上げる必要はありません。所有の証明に要る部分と、争点になる部分だけで足ります」

 「でも」

 「恥ずかしいものほど、脅しに使われやすい」


 まっすぐな言葉だった。

 優しく包まない。けれど、逃げ道のない怖さも含めて正しく言ってくれる。


 「今、先に押さえます。あなた一人で抱える話ではありません」


 その一言で、恵美子はようやく一歩だけ動けた。


 監察所の詰所は寺門脇の小さな建物で、木と紙と墨の匂いが混ざっている。秋の光は高窓から斜めに差し、机の上の塵だけを白く浮かせていた。


 恵美子は椅子へ座ったものの、手を膝へ置くと震えが目立つ。隠そうとしても、かえって分かる。


 隆冶はそれを見ていたはずだが、すぐに問いを始めなかった。

 奥の棚から湯気の立つ茶碗を一つ取り、恵美子の前へ置く。


 「熱いので、少しずつ」

 「……お忙しいのに」

 「忙しいからこそです。震えたまま書くと、あとで読み返せません」


 仕事の理屈にしてくれるのが、この人らしかった。

 けれど恵美子は、その気遣いにすがるように茶碗へ手を伸ばした。掌が熱を受け取る。ようやく、自分の身体がここにあると分かった。


 「ありがとうございます」


 湯気の向こうで、隆冶は帳面を開く準備をしていた。

 その時、戸の外が俄かに騒がしくなる。


 「見つけた!」


 通子の声だった。勢いよく戸が開きそうになって、外から別の声が止める。

 「ここはノックしろ!」

 「今それどころじゃない!」


 結局、二回だけ板が叩かれ、通子が飛び込んできた。後ろに虎哲、さらに役人に腕を押さえられた若い男が一人いる。日焼けした頬に、安い木綿の着物。寺の下働きや荷運びによくいる顔立ちだが、今は見るからに青ざめていた。


 虎哲が短く言う。

 「河原へ抜ける裏道で捕まえた。帳面は薪の束に突っ込んで隠してた」


 通子が胸を張る。

 「古物屋じゃなくて、受け渡し前だった。当たり!」


 役人が薪束から抜き出した茶色の帳面を机へ置く。


 見慣れた角の擦れ、布貼りの表紙、二枚目の見返しに自分でつけた小さな染み。

 恵美子は息を呑んだ。戻ってきた、という安心より、触れられたものが現実になった気持ち悪さのほうが先に来る。


 「確認を」


 隆冶に言われ、恵美子は両手で帳面を開いた。頁は乱暴に捲られた跡があるが、大きく破られてはいない。真ん中あたりの紙端が少し折れている。あの一節のある頁だ。


 「わたしのものです」

 「相違ありませんか」

 「ありません」


 隆冶は頷き、若い男へ視線を向けた。


 「名は」

 「……新吉」

 「誰に頼まれた」

 「お、俺は、ただ持ってこいって」

 「誰に」

 「店の、男に」

 「店の男では名になりません」


 新吉は唇を震わせ、視線を泳がせた。役人に押さえられた腕が細かく震えている。


 通子が一歩前へ出かけたが、虎哲が袖を引いて止める。

 代わりに隆冶が、声を低くした。


 「ここで曖昧にすると、お前一人の盗みになる。使いに出した者の名を言えば、命じられた範囲と責任の線を引ける」


 新吉の喉が動く。

 「……徳博さまの、店の帳場の人が」

 「本人ではないのか」

 「最初に言ったのは、徳博さまです。茶色い帳面があるはずだ、先に確かめろって。帳場の清助が、持って来たら銀貨をやるって」


 部屋の空気が、ひどく静かになった。


 恵美子は茶碗を持つ手に力を入れた。

 やはり、と思う。

 それでも耳で聞くと、腹の底が冷える。徳博は引き下がっていなかった。こちらが名乗り出て店を持ち、人と繋がり始めた今もなお、証拠を先に潰そうとしていたのだ。


 「中を見たか」


 隆冶が問う。


 「少しだけ……」

 「どの頁を」

 「夢がどうとか書いてあるところを探せって」

 「誰に言われた」

 「徳博さまです」


 これで線が繋がった。

 恵美子は分かってしまったからこそ、逆に吐きそうになった。自分の書いた言葉を、証拠でも商品でもなく、最初から口封じの対象として扱われたのだ。


 その瞬間、机の下で握っていた拳へ、ふっと別の温度が触れた気がした。

 実際には何も触れていない。ただ、隆冶が視線だけで「まだここにいる」と伝えてきたのだと、恵美子はあとで思った。


 取り調べは続いた。新吉は、寺の裏手で人の出入りを見ていたこと、貼り紙が出ている部屋は入りづらいが、昼時に誰もいなくなったのを見て入ったこと、帳面だけを取れと指示されていたことを認めた。徳博の名は二度、三度と確認され、そのたびに新吉は頷いた。


 ひと通り終わると、隆冶は役人へ新吉の引き渡しを命じ、証言を書き付けた紙を整える。

 それからようやく、恵美子のほうを向いた。


 「ここから先は、あなたの確認が必要です。無理に今すぐでなくても構いませんが」

 「やります」


 自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。


 怖くないわけではない。

 あの帳面を開くのも、あの頃の自分の文字を見るのも、いまだに苦い。

 けれど、盗られたからといって黙るほうが、もっと悔しい。


 「では、必要な頁だけ」


 隆冶が帳面を恵美子の前へ置く。

 折られた角をそっと戻すと、紙の繊維がかすかに鳴った。恵美子は問題の頁を開き、日付と、自分の癖のある書き始めの字を指で示す。


 「これです。ここに、あの一節があります」

 「ほかに、その文句が外へ出た経路の見当は」

 「徳博の店で文案をまとめていた時期に、帳場へ持ち込んだことがあります。正式な渡しではありませんが、机の上に置いたまま離れたことは……ありました」

 「分かりました。その曖昧さも、記録します」


 責める口調ではなかった。

 抜けのあった過去を、抜けのあるまま記録してくれる。責めずに、曖昧にもしない。その扱われ方に、恵美子は少しだけ救われる。


 調書が一枚、二枚と埋まっていく頃には、茶碗の中身は半分以下になっていた。手の震えも、最初ほどではない。


 通子と虎哲は戸口の外で待っていたらしく、一区切りついたところで顔を覗かせた。


 「終わった?」


 通子が声を落として尋ねる。

 「ひとまず」

 「よかった……って言っていいのかな、こういう時」

 「いいでしょう」


 恵美子が答えると、通子は少しだけ鼻の奥を赤くした。

 「だってさ、あんた、あの帳面なくしたら顔色ほんとに消えてたから」


 虎哲が腕を組む。

 「次から鍵をつける。簡単なやつでいい。あと、窓の留めも換える」

 「そこまでしていただくのは」

 「する。盗られてから言うな」


 ぶっきらぼうな言い方なのに、断る隙がない。

 日依も静かに頭を下げた。

 「寺の中で見慣れない顔が出たら、今後はすぐ伝わるようにします」

 「……皆さん」


 うまく言葉にならない。

 礼を言えば軽くなる気がして、でも言わないのはもっと違う。


 「ありがとうございます」


 やっとそれだけ言うと、通子が肩をすくめた。

 「あとで、もっと高い礼にして。甘い団子とか」

 「それは通子さんが食べたいだけでは」

 「ばれた?」


 小さな笑いが起こる。

 たったそれだけのことなのに、張りつめていた胸が少しだけほどけた。


 隆冶は最後の紙を閉じ、筆を置く。


 「今日はもう、帳面は手元から離さないでください。写しが必要なら、役所で預かる形にします」

 「はい」

 「それから」


 彼は少しだけ言葉を選んだ。


 「盗まれたことと、読まれたかもしれないことは、別の傷です。今夜はどちらも同じ顔をして襲ってくるかもしれない。ですが、少なくとも今は、こちらに記録が残りました」


 恵美子は茶碗を包んだまま、その言葉を受け取った。


 今は、こちらに記録が残った。


 誰かの胸の内だけに置かれた真実は、押しつぶされやすい。

 けれど紙に書かれ、時刻が打たれ、人の名と共に残れば、それはもう「なかったこと」にはされにくい。


 「……はい」


 返事をすると、ようやく自分の声が戻っていた。


 外へ出ると、秋の空は思ったより高かった。寺門前では、夕方の客が少しずつ帰り支度を始めている。風に鳴る札の音が、朝より乾いて聞こえた。


 恵美子は茶色の帳面を胸へ抱く。

 誰にも見せたくなかった頁も、消してしまいたかった昔の字も、そのまま戻ってきた。


 けれどそれを取り戻したのは、自分一人ではなかった。


 通子が走り、虎哲が道を見て、日依が人の記憶を集め、隆冶が順を立てて紙へ残した。

 そうやって守られた一冊を抱いていると、恥ずかしさより先に、悔しさの形が変わっていくのが分かる。


 踏みにじられた。

 けれど、折られてはいない。


 寺の屋根の向こうで、薄い雲がゆっくり流れていった。

 恵美子は胸の前の帳面を抱き直し、今度は落とさぬよう、はっきりと腕に力を込めた。



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