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婚約破棄された代筆令嬢は、満員の寺で恋の俳句を売る  作者: 乾為天女


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第10話 戻る場所なんていらない

 冬の朝は、音から先に痩せていく。


 月暁寺の石畳を掃く竹箒の音も、湯を沸かす釜の鳴りも、秋までよりひとつ薄い。吐く息が白くほどけ、境内の木々は枝の線ばかりを空へ向けていた。春の縁句祭の頃には肩が触れ合うほどだった門前も、いまは人の流れがゆるやかで、立ち止まる余白がある。


 恵美子は小部屋の火鉢へ炭を足し、硯のそばへ手をかざした。

 冷えると、墨はすぐに機嫌を損ねる。筆先の含みも悪くなるし、客の声を聞いているこちらの指まで固くなる。だから冬の朝は、紙より先に手をほぐす。


 「今日の一番客、誰だと思う?」


 通子が戸の外から名を名乗って入ってきた。片手に紙包みをぶら下げている。胡麻の焼ける匂いがした。


 「また団子ですか」

 「今日は焼き餅。違いが分からない顔しないで」

 「違いは分かります。朝から食べるのが通子さんらしいと思っただけです」

 「そういう細い嫌味、最近ちょっと滑らかになってきたよねえ」


 言いながら通子は包みを机へ置いた。冬の朝にしては上機嫌な声だったが、次の瞬間、その勢いが少しだけ鈍る。


 「……で、一番客だけどさ」

 「はい」

 「人じゃなくて、これ」


 差し出されたのは、折り目のきっちりついた文だった。

 見た瞬間、恵美子の喉の奥がすうっと冷える。包み方も、墨の濃さも、表に書かれた自分の名の運びも、見覚えがありすぎた。徳博の店で、贈答用や催促用の文を整える時、恵美子自身が選んでいた癖だった。


 封を切る前から、中の言葉が軽いことだけは分かる。


 「開けなくても嫌な感じするね」

 通子が言った。

 「匂いでもしますか」

 「する。ずっと売れ残ってる香みたいな匂い」


 うまいのか雑なのか分からない例えに、恵美子は少しだけ口元を緩めた。けれど文を開く指は固い。


 本文は短かった。


 話したいことがある。

 一度会ってほしい。

 互いのためになる提案だ。

 今日の申の刻、川沿いの茶屋にて。


 末尾の名は、やはり徳博だった。


 詫びの一言はない。

 盗難の件に触れもしない。

 けれど「互いのためになる」という言い方だけで、相手がまだ何も分かっていないことは十分に伝わった。


 「行くの?」


 通子が覗き込むように尋ねる。


 恵美子はすぐには答えなかった。

 行きたくない。顔も見たくない。けれど、逃げた形で終わらせれば、あの男はきっと都合よく解釈する。怖気づいた、戻りたがっているくせに意地を張っている、その程度に。


 「……会います」


 ようやくそう言うと、通子が眉を寄せた。

 「一人では行かないでよ」

 「分かっています」

 「分かってるって顔じゃない」

 「では、分かっていない顔なのでしょう」


 言い返したところで、自分の声が少し薄いのに気づく。

 手紙一枚で、まだこれほど揺れるのだ。かつて欲しかったものの形をした言葉は、嫌いになった後も、古傷みたいに触れれば痛む。


 通子は机の端を指で叩いた。

 「虎哲に言う。あと、隆冶さんにも」

 「そこまで」

 「そこまで、です。今のあんた、平気なふりが下手」


 言い切られて、恵美子は反論を飲み込んだ。


 その日の午前、客の言葉を聞き取りながらも、心の一部はずっと別の場所にあった。

 冬の縁に立って、昔の店の裏口を見ている自分がいる。帳場の木目、細い廊下、勝手口のきしみ。あの場所へ戻れば、何もかも分かった顔をして仕事を押しつけられ、褒められる時だけ「うちの恵美子」と呼ばれ、都合が悪くなれば棚の影へ追いやられる。その息苦しさはもう知っているのに、「表へ出してやる」と言われたら揺れてしまう自分も、まだ胸のどこかに残っている気がした。


 昼前、日依が静かに湯を差し替えに来た時、恵美子は文を閉じたまま見つめていた。


 「お茶、冷めます」


 小さな声だった。けれどその一言で、恵美子はようやく顔を上げる。


 「……ごめんなさい」

 「謝らなくていいです。ただ、冷めたお茶はおいしくないので」


 日依はそう言って、新しい湯を注いだ。湯気が立つ。

 それから、文の端へ一瞬だけ目をやり、何も聞かずに続けた。


 「通子さんから少し聞きました。申の刻、私は表におります」

 「日依さんまで」

 「見えるところに、人が多いほうがいいですから」


 その言い方が、いかにも日依らしかった。

 大丈夫です、ではなく、人が多いほうがいい。気休めを混ぜず、けれど一人にはしない。


 午後になって、隆冶が来たのは、雪にならないぎりぎりの曇り空の下だった。

 いつもの藍の羽織に、眼鏡の奥の目だけが冴えている。通子が頼んだのだろうと分かっても、恵美子はそれを責める気になれなかった。


 「文は読みました」


 開口一番、隆冶はそう言った。

 「あなたが見せると決める前に、勝手に見たわけではありません。通子さんが、先に読むなら読めと」

 「……あの人らしいです」

 「ええ」


 わずかに、口元がゆるむ。


 「会うのですね」

 「はい」

 「止めはしません。ただし場所が茶屋なら、私は近くにおります。あなたが望めば入るし、望まなければ入らない」

 「監察官として、ですか」

 「半分は」

 「残り半分は」

 「あなたが、いま会う必要のある相手を、会わなくていい理由だけで避けない人だと知っているので」


 恵美子は返事に詰まった。


 庇う、ではない。

 代わりに断る、でもない。

 会うと決めた自分を前提にして、そのうえで倒れないよう足場だけ置いてくれる。そういう支えられ方に、まだ慣れない。


 「ありがとうございます」


 言うと、隆冶は頷いた。


 「それからもう一つ。徳博は最近、帳簿の見直しを急に始めています。遅すぎるくらいに」

 「帳簿」

 「紙の仕入れ、寺への納め分、外注した書き手への支払い。合わない数字がいくつか出ている」

 「……それで、わたしに」

 「店を立て直す看板が欲しいのでしょう。言葉を扱える者で、なおかつ自分より前に出ても、昔の理屈で縛れると思っている相手が」


 そこまで静かに言い切られると、かえって胸が冷える。

 嫌な予感が、形を持ってしまったからだ。


 申の刻。川沿いの茶屋は、夏なら舟遊び客で賑わう場所だが、冬は障子越しの光まで静かだった。

 恵美子は約束の座敷へ通され、火鉢から立つ炭の匂いを吸いながら、膝の上で指を組んだ。外では水音が低く続いている。


 先に来ていた徳博は、立ち上がりこそしたものの、昔のような余裕はなかった。

 羽織は上等だが、襟元がわずかに乱れている。爪の手入れも甘い。目の下には薄く影が差していた。けれど口を開くと、やはり最初に出てくるのは自分の都合だった。


 「来てくれてよかった」

 「用件をうかがいます」

 「相変わらず早いな」


 懐かしむように言う声音に、恵美子の背がこわばる。

 この調子だ。まるで何も壊していない人の顔で、昔の呼吸へ戻そうとする。


 徳博は向かいに座り、卓の上に手を置いた。

 「単刀直入に言う。戻ってこないか」


 やはり、と思うより先に、心が一度だけ大きく揺れた。


 「……どこへ」

 「うちの店だ。表に立っていい。いや、今度は立ってもらう。恋札だけじゃない。贈答札も祝い文も、全部おまえの名を出して売ればいい」


 恵美子は黙った。

 かつて欲しかった言葉が、あまりにも分かりやすい形で卓の上に置かれている。


 表に立っていい。

 名を出して売ればいい。


 三年前なら、それだけで泣いて喜んだかもしれない。夜更けまで灯りの下で筆を動かし、翌朝、ほんの一言「助かった」と言われるだけで足りた頃なら。けれど今、胸に残るのは喜びではなく、ひどく遅れて差し出されたものを前にした空しさだった。


 「急なことですのね」


 ようやく出た言葉は、それだけだった。


 徳博はすぐ頷く。

 「急ぐだけの理由がある。おまえも分かるだろう。寺門前の仮商いが、いつまでも続くわけじゃない。冬は人が減る。後ろ盾も弱い。その点、うちには仕入れの筋も客の台帳もある」

 「だから戻れ、と」

 「利がある話をしている」


 そこには詫びも悔恨もなかった。

 自分のしたことを「利」で上塗りすれば通ると思っている人の目だった。


 「婚約の件は……ああいう場がまずかったのは認める。だが店というものは時流が大事だ。都萌さまの家の名があの時は必要だった。今は別の形で立て直せる」


 「都萌さまの家の名」

 恵美子が繰り返すと、徳博は軽く手を振った。

 「向こうは向こうで面倒になってきた。女は見栄を食べて生きているわけじゃないだろう。居場所があれば落ち着くものだ。おまえだってそうだ」


 その言葉を聞いた瞬間、恵美子の胸の中で何かが音を立てて冷えた。

 この人は、本当に、誰のことも見ていない。


 恵美子だけでなく、都萌のことも。

 働く者のことも、待つ客のことも。

 相手が息をしている人間である前に、自分の店へ置ける札の一枚としてしか見ていないのだ。


 「……わたしは」


 口を開きかけたその時、廊下の向こうで足音が止まった。


 「失礼いたしますわ」


 障子が開き、都萌が入ってきた。

 冬に似合う灰青の衣をまとい、侍女を一人だけ伴っている。前に会った時より、頬の色が冷えて見えた。けれど視線はまっすぐだった。


 徳博が目を見開く。

 「どうして君がここに」

 「どうしても何も。店の者から、今日ここで恵美子さんと会うと聞きましたの」

 「勝手に」

 「勝手はお互いさまですわね」


 都萌はそう言って、風呂敷包みを卓へ置いた。

 広げると、帳面が二冊と、紙片の束が現れる。


 「何のつもりだ」


 徳博の声が低くなる。


 「あなたが『互いのためになる提案』をなさると聞きましたので、わたくしも互いのためになるものを持ってきましたの」

 「都萌さま」

 恵美子が思わず呼ぶと、都萌は頷いた。

 「あなたにも関わる話ですもの。聞いていただいたほうがいいですわ」


 徳博が帳面へ手を伸ばそうとする。だが都萌の侍女が一歩だけ前へ出た。静かな動きなのに、止める意思は十分に見えた。


 「まず、こちら」


 都萌は一冊目を開く。

 「紙の仕入れ帳ですわ。秋の初めから、金砂入りの台紙を百束仕入れたことになっています。でも実際に納められたのは四十束。残りは普通紙ですのに、売値はそのまま」

 「商いではよくある調整だ」

 「ではこちらは?」


 二冊目が開かれる。


 「縁句祭の売上から寺へ納めるはずの清納金。帳面の上では納めたことになっていますけれど、寺の受取印がございません。代わりに、同じ額が別の欄へ移されていますわね。見栄えのよい棚と、客寄せの飾りへ」


 徳博の額にうっすら汗が浮く。

 「それは時期のずれだ」

 「時期のずれで、受取印が三月も四月も消えますの?」


 都萌の声は高くない。けれど静かだからこそ、逃げ道が削られていく。


 「それから外注分。書き手に払ったことになっている銀貨の名簿、三人は存在しません。名字だけ立派で、住まいも筆跡もない。架空ですわ」

 「誰がそんな」

 「わたくしの家の番頭に見てもらいましたの。数字は、黙っていても性根が出ますから」


 徳博の顔から、ようやく色が落ち始めた。


 恵美子は黙って帳面を見つめる。

 仕入れの調整、納め分の後回し、架空の支払い。

 細部は知らなかった。けれど「合わない感じ」だけは、昔から何度もあった。紙の減りと売上の帳尻が合わない夜、寺へ納める分を今日はまだ、と先送りした朝、徳博が数字の話になると妙に機嫌を損ねた瞬間。それらが、いま目の前で一つの形を持っていく。


 「だから何だ」


 徳博がやけに大きな声を出した。

 「商いはきれいごとだけじゃ回らん。少しずつ整えればいい話だ。今それを騒ぎ立てれば、誰が困ると思う」

 「誰が、ですの?」

 都萌が問う。

 「あなたですわね、徳博さま」


 息を呑む気配が座敷に落ちた。


 「あなたはずっとそうですの。誰が困ると言いながら、ご自分の困り事を他人の口へ入れる。婚約の時も、わたくしの家のためだと。札の文句の時も、店のためだと。今も恵美子さんへ、昔ほしかった言葉を餌みたいにぶら下げて」


 徳博が唇を歪める。

 「君に何が分かる」

 「分かりますわ。わたくし、馬鹿ではありませんもの」


 都萌はまっすぐに言い切った。

 前に見た、不器用なくらい平らな言葉だった。けれど今はその平らさが、刃物のようによく切れる。


 「あなたは恵美子さんを愛していない。わたくしのことも愛していない。店の者も、客も、誰も。好きなのは、うまく回っているように見えるご自分だけですわ」


 徳博の喉が上下する。

 反論はすぐに出てこなかった。


 その沈黙が、何より雄弁だった。


 恵美子は、自分の膝の上の指を見た。

 震えていない。

 さっきまで、手紙一枚で古傷みたいに疼いていたのに、今は不思議なくらい静かだった。欲しかった言葉が、いかに粗末な紙へ包まれていたかが、ようやく目の前ではっきり見えたからかもしれない。


 「恵美子」


 徳博が焦ったようにこちらを見る。

 「おまえは違うだろう。三年一緒にやってきた。何が売れるかも、どの時季に何を書くかも、全部分かっている。いまさら知らない顔をするな」

 「ええ、分かっています」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


 「だからこそ、戻れません」


 徳博が目を見張る。

 「何だと」

 「わたしは、あなたの店を支える手ではなく、私自身として生きます」


 言い切った瞬間、胸の奥で何かが静かに外れた。

 大きな音ではない。長く締めすぎた紐が、ようやく指先で解ける時の感触に近かった。


 「今さら表へ出してやると言われても、遅いのです。表に立つかどうかを決めるのは、もうあなたではありません」

 「意地を張るな」

 「意地ではありません。選んでいるのです」


 徳博の顔が、初めてはっきり崩れた。

 困った客をなだめる顔でも、帳場で指図する顔でもない。自分の思い通りに動くはずのものが動かなかった時の、空っぽな驚きだった。


 「じゃあ見捨てるのか」

 「助けることと、戻ることは違います」


 恵美子は徳博を見た。

 昔なら、あの顔を見るだけで自分が悪い気がしただろう。役に立てなかった、機嫌を損ねた、もっと早く気づけばよかった。そうやって、いつも自分のほうから折れてきた。


 けれど今は違う。


 「必要なことがあれば、わたしは知っていることを話します。寺への納め分のことも、文案のことも、盗まれた帳面のことも。けれど、あなたの店へ戻って、その穴をわたしの時間で塞ぐつもりはありません」

 「恵美子!」

 「戻る場所なんて、もういりません」


 その一言が座敷の中へ落ちた。


 恵美子は、ようやく分かった気がした。

 自分が欲しかったのは、昔の場所へ戻ることではない。あの頃の自分が、あそこしかないと思い込んでいた狭い呼吸から出ることだったのだと。


 都萌が静かに帳面を閉じた。

 「聞こえましたわね、徳博さま」


 その時、障子の外で気配が動いた。


 「ここから先は、記録の話になります」


 入ってきたのは隆冶だった。

 茶屋の者に断っていたのだろう、足音も無駄がない。灰色の冬光を背に、眼鏡の奥の目だけがくっきりと座敷を捉えている。


 徳博が立ち上がりかける。

 「なぜおまえが」

 「近くにいると申し上げたはずです。呼ばれたので来ました」

 「呼んだ覚えはない」

 「あなたではなく、状況にです」


 隆冶は卓上の帳面へ視線を落とした。

 「それを任意で預かってよろしいか、都萌さん」

 「ええ。わたくしの名から出した写しも別にございますわ」

 「助かります」


 徳博はなお何か言おうとしたが、声にならない。

 言い逃れの筋を探しているのだろう。けれど恵美子は、もうその顔を追わなかった。


 隆冶が恵美子へ視線を向ける。

 「あなたは」

 「必要なことを話します」

 「分かりました。今日はもう十分です」


 その「十分」が、どこにも甘やかしの響きを持たないのがありがたかった。

 もう決めたのだから、これ以上ここで頑張る必要はない、ときちんと線を引いてくれる。


 茶屋を出ると、空から細かなものが落ちてきた。

 雪というには頼りない、白い粉のような初雪だった。川面へ触れるそばから消えていく。


 通子と虎哲が軒下で待っていた。通子は恵美子の顔を見るなり駆け寄る。


 「どうだった」

 「終わりました」

 「その言い方だと、かなり終わったね?」

 「かなり終わりました」


 虎哲が短く息を吐く。

 「じゃあ、帰るか」

 「帰るって」

 通子が言ってから、少しだけ笑った。

 「……いや、まだ店じゃないけどさ。戻るの、あっちじゃないって意味で」


 恵美子は、その言い直しを聞いて、初めて肩の力が抜けた。

 帰る。

 昔の店ではない場所へ、その言葉を向けてもいいのだ。


 都萌は侍女とともに別の牛車へ向かう前、立ち止まって振り返った。


 「恵美子さん」

 「はい」

 「前にいただいた札、まだ持っていますの」


 灰青の袖の内へ手を入れ、小さく包まれた紙を見せる。


 「春の道

 裾をもたずに

 風を受く


 あの通りにしてみますわ。家が何を言おうと、わたくしは裾を持たせません」


 言って、都萌は少しだけ口元を上げた。

 不器用で、けれど前よりずっと自分の顔に見える笑みだった。


 「ありがとうございます」


 恵美子が頭を下げると、都萌はきちんと名を告げてから車へ乗った。最後まで、札の決まりを守る人だった。


 雪はまだ、降るとも降らぬともつかない細さで空に漂っている。

 隆冶は少し遅れて茶屋から出てきて、恵美子の歩幅に合わせた。


 「足元、滑ります」

 「はい」

 「今日は、よく言いました」


 たったそれだけだった。

 けれど、その短い言葉が胸の奥へまっすぐ入る。


 「……少し、怖かったです」


 気づけば、恵美子はそうこぼしていた。


 「知っています」

 「でも、言えました」

 「ええ」


 隆冶はそれ以上、立派な慰めを並べなかった。

 ただ並んで歩く。石畳の継ぎ目、冬の風、消えかけの雪。そういう細かなものの中で、恵美子は自分の足がちゃんと前へ出ているのを確かめた。


 昔の店へ戻る道は、もう要らない。

 その代わりに、まだ細くても、自分の名で選んでいける道がある。


 月暁寺の門が見えてくる。

 春には満員だった寺は、冬の静けさの中で、今は広く息をしていた。


 恵美子は白くほどける息を見上げ、それが空へ消えるまで、少しだけ足を止めていた。



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