第11話 店をひらく、名をひらく
二月の終わり、月暁寺の門前には、雪ではなく細かな砂埃が立つようになっていた。
朝の風はまだ冷たい。けれど石畳の隅には、冬のあいだ固く縮こまっていた草の先が、うっすら青く覗きはじめている。恵美子は門前の古い店先の前で立ち止まり、胸の前で指を組んだ。
寺の西側、参道から半町ほどずれた角に、小さな空き家がある。もとは香と数珠を扱う夫婦が使っていた店で、妻が病に伏して里へ戻ったのをきっかけに、半年ほど閉まったままだった。格子戸は日に焼け、庇の端には去年の蔓草が乾いたまま残っている。広さは六畳ほど。けれど表に札を並べる台を置き、奥に文机を据え、帳場を一つ作るには十分だった。
「ここ、本当に借りられるんですね」
そう呟くと、隣にいた日依が小さく頷いた。
「住職さまも、門前番の与助さんも、昨日もう一度見回ってくださいました。雨漏りは北の隅だけですって」
「北の隅だけって言い方、だいぶ雑じゃない?」
通子が腕を組んだまま天井を見上げる。
「雨漏りって、一か所でも嫌なんだけど」
「だから今から直すんだろ」
虎哲はそう言って、肩に担いでいた板をどすりと下ろした。鉋のかかった木の匂いがふわりと立つ。庇の補修用の板と、新しく作った棚板だ。
「店ってのはな、最初から完璧な顔して開くもんじゃねえ。使いながら癖を見て、直していく」
「大工の言い分はいつもそれ」
「紙屋の飾り紐は最初から完璧なのか」
「当たり前でしょ」
言い返す通子の声を聞きながら、恵美子はそっと戸へ触れた。冷たい木肌だった。けれど押してみると、思ったより素直に滑って開く。
薄暗い店内へ、午前の光が斜めに差し込んだ。
前の店の名残がまだ少しある。壁際の釘、色の抜けた敷紙、棚の奥に置き忘れられた小さな空箱。人が去ったあとの場所特有の、ぽっかりした静けさがあった。
「恵美子さん」
後ろから呼ぶ声がして振り返ると、隆冶が石段を上がってくるところだった。灰鼠の羽織に、いつもの眼鏡。右手には巻いた書付を持っている。
「寺と監察所の確認が済みました。門前商いの許可、三月初めから一年。家賃は寺へ月ごと、代筆の依頼で個人の手紙を預かる場合は、控えの扱いについてこちらの取り決めに従うこと」
言いながら、書付を恵美子へ差し出す。
「難しいところには印を付けました。読んで、不利があれば言ってください」
してやった、ではなく、読んで決めてください、と言う。
その言い方だけで、胸の奥の強ばりが少しほどける。
恵美子は書付を両手で受け取った。紙は厚く、角がきちんと揃っていた。
「……ありがとうございます」
「礼は、読み終えてからで結構です」
隆冶はいつも通りの顔で言ったが、通子がすかさず横から口を挟む。
「またそうやって、いいこと言ってるのに半歩だけ下がる」
「通子さん」
「だって本当じゃん」
隆冶は眉をわずかに上げただけで、言い返さなかった。その代わり虎哲へ視線を向ける。
「屋根の北隅、今日中に見られますか」
「見られる。直すのは昼までに片づける」
「助かります」
男二人の話は短い。けれど短いぶん、もう段取りが頭の中で済んでいるのが分かる。
その時、門前から牛車の音がした。
振り向くと、小ぶりな荷車が一台、店の前へ止まる。御者台から降りた少年が、奥の荷を指して言った。
「志和の東町からです。文机、一棹」
恵美子は目を見開いた。
「文机?」
荷を覆っていた布が外される。現れたのは、見覚えのある濃い茶の木目だった。脚の一本にだけ、幼い頃につけた小さな傷がある。父に叱られて、恵美子が泣きながら布で磨いた、あの跡だ。
「実家から運ばせました」
隆冶が言う。
「空き家のままにしておくより、使うほうがよいだろうと。ご迷惑なら戻します」
「迷惑だなんて……」
声が途中で詰まった。
母の文机だった。
夕暮れになると母はその前に座り、使い残しの紙を小さく折って、幼い恵美子へ渡した。夢は、口で言うと散りやすいから、紙へ折ってしまって引き出しへ入れておくのだと笑っていた。いつか開く日まで、なくさないように。
だから父は冗談まじりに、その机を夢折り机と呼んでいた。
「覚えておいででしたか」
恵美子が言うと、隆冶は少しだけ首を傾けた。
「以前、帳面留めの金具の話をした時に、母君の机だと」
たった一度、何気なくこぼしたことを、この人は覚えている。
通子が、荷車の脇でぱちんと手を叩いた。
「決まりじゃない? 屋号」
「屋号?」
「いるでしょ。いつまでも『あの札の店』じゃ困るじゃん」
虎哲も文机の脚を持ち上げながら言う。
「看板の寸法、先に決めねえと削れねえ」
日依が控えめに続ける。
「帳場の帳面も、最初の頁に屋号があったほうが……きちんとします」
恵美子は運び込まれる文机を見つめた。
引き出しの真鍮はくすんでいる。けれど中央の木目だけは、何度も手のひらで撫でられてきたせいか、やわらかな艶が残っていた。
「夢折堂」
自分の口から、するりと出た。
「この机の名を、もらいます。夢折堂」
通子の目が丸くなる。
「いい。すごくいい」
「少し柔らかすぎるかと思いましたが」
日依が言う。
「でも、中で書くものには合っています」
「字にすると形も悪くねえな」
虎哲が指先で空へ四文字をなぞる。
隆冶は何も挟まず、一度だけゆっくり頷いた。
「では、許可書の店名欄は、それで」
その一言で、夢折堂は口先の思いつきではなく、紙の上へ落ちた現実になる。
恵美子は小さく息を吸った。
昼まで、店先はひどく賑やかだった。
虎哲は屋根へ上がって北隅の板を替え、通子は格子に合わせて飾り紐の色を決め、日依は店の中で新しい帳面へ日付と品目の欄を引く。恵美子は文机の引き出しを一つずつ拭き、筆、墨、紙、封蝋、客に見せる札見本を置く場所を決めた。
「薄紅の札は表に近いほうがいいね」
通子が言う。
「春はあれから動くし」
「見本は三枚までにします」
恵美子は答えた。
「多いと、選ぶ前に人が疲れてしまうので」
「なるほど。じゃあ飾りも盛りすぎない」
そう言っておいて、通子は三つ結ぶはずの紐を五つ結んでいた。恵美子が黙って見つめると、通子は目を逸らす。
「……三つにする」
昼過ぎ、都萌から使いが来た。
包みの中には、上質だが派手すぎない浅葱色の暖簾地と、一枚の短い文が入っていた。
『開店の折に。門前で目立ちすぎず、けれど安く見えない色を選びましたの。今度は先に名を書きますわ。 都萌』
最後の一行を読んだ瞬間、通子が吹き出した。
「律儀」
「都萌さまらしいです」
日依も微笑む。
その暖簾地は、夕方までには店先へ掛けられた。浅葱色の布が風に揺れるたび、日差しの具合で青にも緑にも見える。
看板は虎哲が日暮れ前に持ってきた。
夢折堂。
厚すぎない板に、日依が清書し、恵美子が最後の止めを入れた字だ。まだ新しい木の香りがする。
「ほら」
虎哲が看板を掲げる。
「これで遠くからでも読める」
「読めるし、変に気取ってない」
通子が言う。
「恵美子の店って感じ」
恵美子は返事の代わりに、両手で看板の端を支えた。木の重みが、妙に頼もしい。
夜になる前、皆で戸口まわりの最後の仕上げをした。
通子が細い紙を一枚持ってくる。
「これ、前の小部屋で貼ってたやつ、新しく書き直した」
見れば、見慣れた太い字でこうある。
ノックはしないで。
恵美子は思わず笑ってしまった。
「まだ使うんですか」
「使うでしょ。集中してる時の顔、いまだに怖いもん」
「そんなにですか」
「そんなに」
日依まで静かに頷くので、少しだけ恥ずかしい。
「でも、それは奥へ貼りましょう」
恵美子は紙を受け取り、店のいちばん奥、文机の脇にある小さな引き戸へ貼った。
客からは見えない場所だ。書く時の自分を守るための札として、そこに残す。
そのあとで、もう一枚の紙を取り出す。こちらは昼のうちに恵美子自身が書いたものだった。
ご用の方はお名前を。
少し迷ってから、表の戸の内側ではなく、外からよく見える格子の脇へ貼る。
「外なんだ」
通子が言う。
「ええ」
恵美子は紙の端を指で押さえた。
「誰も入れないためではなくて、誰を迎えるか、わたしが決めるためにしたいのです」
言い終えると、店の中がほんの少し静かになった。
虎哲が先に咳払いをし、通子は鼻の頭をかいた。日依だけが、うれしそうに目を細める。
「……うん。そういうの、いい」
通子が言った。
皆が帰ったあと、空はすっかり群青に沈んでいた。
暖簾は外した。看板だけが庇の下で、まだ新しい字を夜気に晒している。店の中には文机と帳面、揃えた筆、明日から売る札見本。どれも静かで、けれど置き去りの品ではなく、これから使われるものの顔をしていた。
恵美子は一人で床へ座り、今日書いた屋号をもう一度帳面へなぞった。
夢折堂。
自分の名ではない。けれど自分の手で選んだ名だ。
誰かの店を支えるための裏書きではなく、ここで書かれたものの行き先を、自分で引き受けるための名。
戸の外で、足音が止まった。
叩く音はしない。
「隆冶です」
聞き慣れた声が、戸一枚隔てた向こうからする。
「灯りが見えたので。戸締まりの確認を」
恵美子は、奥の引き戸に貼った『ノックはしないで』を見、それから表の『ご用の方はお名前を』へ目を移した。
「どうぞ」
戸が開く。夜気と一緒に、少し冷えた外の匂いが入ってきた。
隆冶は敷居をまたいでから、店の中をひと巡り見た。文机、帳面、筆、看板の控え。細部まで確かめる視線なのに、値踏みとは違う。
「よい店です」
それだけだった。
けれど恵美子は、その短い言葉に昼の疲れがほどけていくのを感じた。
「まだ開いてもいないのに」
「開く前だから分かることもあります」
隆冶は少しだけ表の紙札を見て、眼鏡の奥で目を和らげた。
「名を呼べば入ってよい店なのですね」
「はい」
「では、覚えておきます」
そのやり取りがおかしくて、恵美子はとうとう声を立てて笑った。
今日一日、胸の奥にずっと詰まっていたものが、笑いと一緒に軽くなる。
店をひらく。
名をひらく。
それは大きな声で過去を断ち切ることではなく、戸口の紙を一枚替えるように、少しずつ息の向きを変えていくことなのかもしれなかった。
外では、春を待つ風が暖簾のない竿を小さく鳴らした。
明日になれば、ここへ最初の客が名を告げて立つ。
恵美子は文机へ手を置き、今度は確かに、自分の場所だと思いながら灯りを見つめていた。




