第12話 二年目、夢折堂の歳月
春の縁句祭が終わっても、夢折堂の戸口から人の気配が消えることはなかった。
四月の朝、浅葱色の暖簾はまだ少しだけ冷たい風を含んで揺れる。石畳の埃を掃き、水を打ち、通子が飾り紐の色を並べ替え、日依が帳場の銭を数え、恵美子は文机の前で筆先を整える。店をひらいたばかりの頃は、誰かが戸の前へ立つたびに胸が跳ねた。けれど二年目の春には、その緊張が、少しだけ順番のある忙しさに変わっていた。
「ご用の方はお名前を、だっけ」
戸口の外で、聞き覚えのある男の声がした。
恵美子が顔を上げるより早く、通子がにやりとする。
「はいはい、名乗ってからどうぞ」
「虎哲だ。裏の棚板を直しに来た」
「真面目か」
通子が笑い、戸を開ける。虎哲は両腕に細長い板を抱え、いつものように敷居の傷を踏まぬ足取りで入ってきた。
夢折堂の表には『ご用の方はお名前を』、奥の小部屋には相変わらず『ノックはしないで』が貼ってある。最初は冗談半分だった二枚の紙は、いつの間にか店の決まりになった。子どもは律儀にフルネームを名乗り、顔なじみの女房は「今日は名を言わなくてもいいでしょう」と笑い、それでもたいてい、最後にはちゃんと自分の名を口にする。
名を言って入る。
その小さな手間があるだけで、店の空気は不思議と荒れなかった。
仕事の中身も、春のころとは変わっていた。
恋の札だけを求めて来る客は、もちろん今も多い。けれど五月に入ると、祝い事の帰りに寄る夫婦が増え、六月の長雨が始まると、素直に謝れない者たちが戸口で袖をいじるようになる。七月には、遠方へ奉公に出る息子へ持たせる札を書いてほしいという母親が来た。八月には、暑さで気が立って喧嘩ばかりしている店主夫婦が、互いに渡す言葉を探しに来る。秋になれば、実家を継ぐか都へ出るか迷う娘が長く座り込み、冬が近づけば、年の終わりに会いに行く人への手紙の代筆が増えた。
願いは一つとして同じ形をしていない。
それを一枚ずつすくい上げ、五・七・五におさめる日もあれば、俳句では足りず、短い手紙として整える日もある。恵美子は客の言葉を聞きながら、前よりも少し長く間を取るようになった。うまい文句を急いで出すより、相手が本当に言いたいことが顔へ上がってくるのを待ったほうが、結局は強い一枚になると分かってきたからだ。
「夢折堂の札って、何か静かなんだよね」
ある日の午後、通子が飾り紐を結びながら言った。
「静か、ですか」
「うん。派手に煽ってこないのに、ちゃんと欲しくなる。あれ不思議」
「通子さんの売り方のほうが、よほど人を引きます」
「それはあたしの仕事。で、恵美子さんは帰る時にじわっと効かせる仕事」
褒めているのか茶化しているのか分かりにくい。だが通子の言葉には、いつも現場を見ている者の勘があった。
日依も帳場から顔を上げる。
「最初より、余白が増えました」
「余白」
「はい。前は、正しく届くように字を並べていました。今は、相手が自分で息を置けるところが残っています」
その言い方がどこか日依らしくて、恵美子は少し笑った。
店は忙しかったが、最初のころのように、恵美子一人で回しているわけではない。通子は客の最初の表情を見て、飾り紐の色だけでなく、急ぎかどうかまで見抜くようになった。虎哲は棚や戸だけでなく、待ち客の腰掛けの高さまで気にして直していく。日依は清書の手を上げ、帳場も覚え、今では恵美子が長く客と話しているあいだ、次の注文控えを先にまとめてくれる。
都萌も、ふいに力を貸した。
真夏の終わり、伯爵家の女中が三人まとめて店へ来た時のことだ。祝い札を何十枚も急ぎでほしいという、いかにも無茶な頼み方だった。通子が眉をしかめ、日依が帳面を抱え直したところへ、夕方になって都萌本人が現れた。
「その注文、半分は急がなくてよろしいものですわ」
開口一番、そう言ったので、店の中が一瞬しんとした。
都萌は扇を閉じ、女中たちへ向き直る。
「見栄のために一日に詰め込むから無理が出るのです。三日に分けなさい。そうすれば、受け取る側の名も、祝う側の顔も、ちゃんと違って見えるでしょう」
女中たちは返す言葉をなくし、その場で日を分けた。都萌はそのあと恵美子へだけ小さく言う。
「急がせれば高く見えると思っている人は多いの。でも、丁寧に待たせたほうが、かえって上等に見える時もありますのよ」
相変わらず言い方は少し鋭い。けれど、その鋭さの向く先が、前よりずっとはっきりしていた。
そうして店は、春、夏、秋と形を変えながら、町に根をおろしていった。
ただ、根づくほどに、恵美子は別の癖へ引き戻されてもいた。
頼まれれば受ける。
足りなければ自分で埋める。
間に合わなければ眠りを削る。
徳博の店にいた頃に身についたその癖は、誰かに命じられなくなっても、体の奥に残っていた。
夏の盛り、夜になっても紙が湿り、墨の乾きが遅い日が続いた頃だった。
昼に受けた注文を終え、皆が帰ったあとも、恵美子は一人で文机に向かっていた。祝い札六枚、送り出す札三枚、代筆二通、翌朝渡しの見本書き。風の止まった店の中は蒸し、襟足に貼りつく髪が鬱陶しい。奥の引き戸には『ノックはしないで』がある。だから今は、誰も声をかけてこない。
それが、かえって都合がよかった。
筆を持つ指が少し重い。水を飲むのを忘れていたと気づいたのは、十枚目を書き終えたあたりだった。立ち上がろうとして、視界が白く揺れる。文机の端へ手をついたつもりが、指先は空を切り、墨壺が危うく倒れかけた。
その瞬間、戸の向こうで低い声がした。
「隆冶です」
いつもと同じ、短い名乗りだった。
恵美子は返事をしようとして、声がうまく出ない。戸は開かない。隆冶は決して、こちらの応えなしに入ってはこない。
「恵美子さん」
二度目に呼ばれた声で、ようやく我に返った。
「……どうぞ」
戸が開き、夜気が流れ込む。隆冶は敷居をまたいだ途端、机の上の札の量と、恵美子の顔色と、水差しの減っていない具合を一度で見たらしい。眉がほんのわずか寄る。
「まだこれだけ残していたのですか」
「今夜のうちに片づければ、明日の朝が楽で」
「今夜倒れれば、明日の朝どころではない」
声は強くない。だが、言葉の置き方に逃げ道がなかった。
恵美子は反射的に言い返しかける。
「でも、私がやらないと」
「誰がそう決めました」
「……私が」
「なら、その決め方を改める時です」
隆冶はそれだけ言って、文机の上の注文控えを見た。勝手に触れるのではなく、まず恵美子へ確認の視線をよこす。
「見ても」
「はい」
控えを一枚ずつ確かめ、必要な順に並べ替える。急ぎ、明朝、三日以内。手つきは役所の書類を分ける時と同じくらい静かだ。
「これは明朝で間に合う。これは日依殿が清書できる。これは通子殿に紐選びを先に任せれば、あなたの手は半分空く」
「仕事を分けたら、皆の手間が」
「皆は、そのためにここにいるのでしょう」
そう言われた瞬間、恵美子は何も返せなくなった。
自分が頑張れば済む、と思っていた。
そのほうが早いし、迷惑をかけないと。
けれど実際には、その考え方のせいで、皆を頼らないまま仕事の流れを詰まらせていたのかもしれない。
隆冶は文机の脇へ、冷えた竹筒を一本置いた。
「寺務所で冷やしていた薄荷水です。飲んでください」
「わざわざ持ってきたのですか」
「戸締まりの確認のついでです」
「ついでにしては、用意がよすぎます」
「用意しておくべき相手だと思ったので」
さらりと言われ、恵美子の頬が熱くなる。暑さの残りだけではない気がして、余計に腹立たしい。
その夜は結局、残りを半分だけ片づけて筆を置いた。翌朝、日依は何も言わずに清書の山を自分の前へ引き寄せ、通子は「今日は見本札を減らす」と勝手に決め、虎哲は昼前に現れて「長く座る日が続くなら椅子の脚を一寸上げる」と言い出した。
「頼んでないのに」
「頼まれてからだと遅い時がある」
「虎哲さんまで」
「俺までって何だ」
口ではそう返しながら、虎哲は文机の高さまで見て、肘の角度が楽になる位置へ直していく。通子は横から「ほらね、あんた一人で店やってるんじゃないんだって」と笑い、日依は控えの端へ、新しく小さく印をつけ始めた。恵美子が抱え込みそうな注文に、先回りの印をつけるためだという。
その日の夕方、都萌からも文が届いた。
体裁だけ立派で気持ちの空いた祝い札は夢折堂へ頼まぬこと。
必要以上に急ぎだと言い張る客には、こちらで日にちを正すこと。
紙面の言い回しは相変わらずきっぱりしていたが、最後にだけ、
無理をして字が痩せるのは損ですわ、
と添えてあった。
そこまでされると、さすがに恵美子も意地を張りにくい。
秋が深まるころには、夢折堂の仕事の流れは最初よりずっとなだらかになっていた。朝一番の客は通子が表で受け、内容が複雑なものだけ恵美子へ通す。急ぎでない代筆は日依が下書きをまとめ、仕上げの言葉だけを恵美子が入れる。棚や建具の具合は虎哲が定期的に見に来る。都萌は上流の客へ、夢折堂は急がせる店ではないと、半ば言い聞かせるように広めてくれた。
そして隆冶は、変わらず線を越えなかった。
公の場では監察官として店の周りを見、必要があれば混雑を整え、代金を払う時は一客として帳場へ銭を置く。私用で来る時でも、必ず表で名を告げる。恵美子が一枚書き上がるまで待つことはあっても、急がせることはない。
ある冬の夕方、彼は年の締めの挨拶札を一枚頼みに来た。
「監察所から寺務方へ渡すものです。固すぎず、軽すぎず」
「難しい注文ですね」
「そうでしょうか」
「かなり」
恵美子がそう返すと、隆冶は眼鏡の奥でわずかに笑った。
「あなたなら引き受けてくださると思っていました」
「値切らない方の注文なので、受けます」
言い返すと、通子が帳場で肩を震わせた。隆冶は否定せず、きちんと定めの額を払い、できあがった札を受け取る時も「助かります」とだけ言う。そういう距離が、恵美子にはかえって心地よかった。甘やかされていない。けれど、雑にも扱われていない。その確かさが、季節を越えるごとに少しずつ積み重なっていく。
年が明ける少し前、店先には正月用の見本札が並んだ。薄い金を引いた白札、若松色の紐、梅を一輪だけ添えた祝詞。朝の空気は冴え、筆先も夏とは別の意味で引き締まる。
恵美子は開店前、まだ誰も来ない表の机で、新年最初の見本を書いていた。
賀の字を一度。
寿の字を一度。
それから、迎える年へ向けた短い願いを、五・七・五で。
書き終えたところで、ふと手が止まる。
紙の上の字が、前より少し丸みを含んで見えた。弱いわけではない。力を抜くところと入れるところが、自分の中でようやく噛み合ってきたような線だ。徳博の店にいた頃は、売れるように、間違えないように、早く出せるようにと、誰かの都合へ合わせてばかりいた。春に寺門前で初めて名を呼ばれた時も、まだ自分の字が自分のものだとは思えていなかった。
けれど今、夢折堂の朝の机に置かれたその字は、誰の真似でもなく、自分がこう書きたいと思って書いた形をしている。
「どうしました」
背後から、静かな声がした。
振り向くと、いつの間にか日依が帳場へ入ってきていた。まだ外套を脱いでいない。吐いた息が少し白い。
「いえ」
恵美子は筆を置き、できたばかりの見本札を少し離して眺めた。
「出会ったころより、自分の字が自分のものに見えると思って」
日依は札を見、それから恵美子の顔を見る。
「はい。そう見えます」
それだけで十分だった。
表では、通子が暖簾を掛ける音がし、虎哲がどこかで戸車を回す音がする。まもなく店は開く。名を告げる客が来て、誰かの願いがまた紙の上へ置かれる。
恵美子は新しい年の札を、夢折堂のいちばん目に入る場所へ立てた。
自分の字で。
自分の名のある店で。
誰かの胸へ届く言葉を書く。
二年目の朝の光は、去年より少しだけやわらかく、けれど迷いなく、白い紙の上へ差していた。




