第13話 いつもあなたの夢を見ている
三年目の春は、気づけば足音よりも先に匂いでやって来た。
朝いちばんに戸を開けた時、石畳に打った水の冷たさが、二年目の春よりやわらいでいる。寺へ向かう坂の柳はまだ薄いが、枝先の色はもう冬のものではない。月暁寺の門前では、虎哲たちが仮設の台を運び、通子が新しい飾り紐の箱を抱え、寺男が去年より少し早い時刻から露店の場所札を打ち始めていた。
「今年は来るのが早いねえ、人も荷も」
通子が箱を下ろしながら言う。
「宿が先に埋まるらしいです」
日依は帳場用の板を拭きつつ、境内のほうへ目をやった。
「今朝、寺務所へ紙を届けたら、もう西門の宿帳がいっぱいだと」
「そりゃそうだよ。去年の帰りに、来年も来るって言ってた客、何人いたと思う?」
通子はそう言って、暖簾の端を指でつまみ、少しだけ位置を直した。夢折堂の浅葱色は、春の光に当たると水を含んだ葉のような色になる。恵美子はその揺れを見ながら、ふと、最初の春のことを思い出した。
あの日も、人は多かった。
ただし今のように、待つべき場所も、立ち止まってよい場所も、息をつける順もなかった。押され、怒鳴られ、同じ文句の札が風に煽られて、あちこちでぱたぱたと鳴っていた。
――いつもあなたの夢を見ている。
あの言葉は、町に流れた最初の年こそ、恵美子の胸をひどくざわつかせた。自分の手を離れたどころか、そもそも渡した覚えのない一節だった。誰かの口から聞くたびに、傷の上を薄い紙で撫でられるような不快さがあった。
けれど二年が過ぎた今、その言葉は、前のままの痛みでは残っていない。
昼すぎ、若い娘が一人、夢折堂の戸口で名を告げた。
「里津と申します。あの……お願いしたい札があって」
袖口の縫い目が新しい。春から奉公に出るのだろうか、まだ決め切れない不安が声の端に出ている。恵美子が席を勧めると、娘は膝の上で指をからめ、小さく息を吸った。
「前に、よく見かけた言葉があるでしょう。夢を、見る、と……」
そこで止まり、恥ずかしそうに伏せる。
「それを書いていただくことは、できますか」
通子が一瞬だけ恵美子の顔を見た。二年目の春までなら、ここで空気が止まっていたかもしれない。だが恵美子は、驚くほど静かな気持ちで娘の声を受け止めていた。
「そのままの形では、うちではあまりお受けしていません」
娘の肩がすこし落ちる。
「そう、ですよね」
「けれど、どうしてその言葉が欲しいのかは、お聞きできます」
娘はまばたきをし、それからおずおずと顔を上げた。
「奉公先が遠くて。幼なじみに、春が終わったら都へ出ると言われたんです。待つと約束したわけでもないし、待ってほしいとも言えなくて。でも、寝る前に、あの人が明日も笑っていればいいと思ってしまうんです」
たどたどしいが、言葉は嘘をついていなかった。
恵美子は娘の指先の強ばりを見、頷く。
「それは、夢を見ているというより……」
「会えない日にも、その人の明日を思ってしまう、でしょうか」
日依がそっと言葉を添えた。
娘の目が、ほっとしたようにゆるむ。
恵美子は筆を取り、しばらく紙を見た。借りものの有名な言葉ではなく、この娘だけの願いとして、今ここに置ける形を探す。やがてゆっくりと線を引いた。
春遠し
会えぬ日ごとに
明日を問う
読み上げると、娘は両手で口元を押さえた。
「……私、待つって言われたかったんじゃなくて、ちゃんとこの人の明日を思っていたかったんですね」
札を受け取る手が、来た時より少し温かそうに見えた。
娘が帰ったあと、通子が小声で口笛を吹く。
「顔色一つ変えなかったね」
「何がですか」
「あの言葉の話になった時」
「変える理由が、前より減りました」
恵美子は使い終えた筆先を水にくぐらせた。
「もう、あの一節そのものに振り回される必要はありません。誰がどう盗んだかは、変わりませんけれど」
「でも」
「でも、今ここで言葉を選ぶのは私です」
それを口にした瞬間、自分でも少し可笑しくなった。言い切れるようになったのだ。誰かに奪われた一文ではなく、自分が今も毎日書いている無数の一文のほうが、ずっと大きくなっている。
縁句祭が近づくほど、店にも寺にも、懐かしい顔が増えていった。
喧嘩中に札を書いた夫婦は、今年は肩の高さをそろえてやって来た。送り出しの札を頼んだ母親は、息子から届いた最初の手紙を見せに来た。都萌は都から届く上等の紙束を選り分け、「見栄だけの贈答には勿体ないから、こちらは本当に大事な人へ渡す札用に」と置いていく。虎哲は祭りの仮設台を去年より一段低くして、「背の低い娘が書きにくそうだったから」と言い、通子は「気づくところが地味に優しい」と笑った。
隆冶は例年と変わらぬ顔で、むしろ例年より忙しそうだった。
監察所から寺へ回す人手が今年は多く、町外れの馬車置き場まで見なければならないらしい。朝早くから境内の札割りを確かめ、昼には露店の通り道を測り、夕方には寺務所で帳面を整える。夢折堂へ寄る時も、長居はしない。けれど、たとえほんの短い時間でも、必ず表で名を告げた。
「隆冶です」
その声が戸口に落ちるたび、恵美子はまだ少しだけ胸の奥を整える必要があった。
ある夕方、隆冶は祭り用の許可札を二枚受け取りに来た。寺門前の混雑整理に使う仮柵の位置について、虎哲と相談があるという。恵美子が用意した札を渡すと、彼は礼を言い、しかし珍しくそのまま帰らなかった。
「もう一つ、頼みがあります」
そう言って、懐から細長い包みを出す。中には、夢折堂で扱っている白札より少し厚く、手に吸いつくような紙が一枚入っていた。
「紙だけ、先に選びたい」
通子が帳場で目を丸くする。
「文句は決まってないのに?」
「ええ」
「珍しい。いつもは用向きまできっちり言うのに」
隆冶は否定せず、紙の縁へ視線を落とした。
「決まっていないのではなく、決め方を間違えたくないのです」
店の中の空気が、ほんのわずかだけ変わった。
日依がさりげなく帳面へ視線を戻し、通子はわざとらしいほど奥の飾り棚へ向かう。虎哲などその場にいたら確実に何か言っただろうが、幸いその時はいなかった。
恵美子は紙を受け取り、指先で厚みを確かめた。
「祭りの札ですか」
「はい」
「差し支えなければ、どなたへ」
「まだ、名を書く段ではありません」
その答えが、逃げているようでいて、妙に正直だった。
恵美子は紙を文机の脇へ置く。
「では、お預かりします。文が決まった時に」
「……おそらく、ぎりぎりになります」
「監察官殿らしくないですね」
「承知しています」
眼鏡の奥で、彼はひどく静かに困った顔をした。そんな顔を見るのは珍しくて、恵美子は思わず目をそらしそうになる。
「急ぎません」
代わりにそう言うと、隆冶は少しだけ肩の力を抜いた。
「助かります」
それだけのやり取りなのに、その晩、寝台に入ってからもしばらく耳の内側に残っていた。
決め方を間違えたくない。
紙だけ先に選ぶ。
まだ、名を書く段ではありません。
自分へ向けたものだと決めつけるほど、恵美子は若くも鈍くもない。けれど、そうでないと片づけるには、言葉の置き方があまりに慎重だった。
数日後、祭り前の見回りで夢折堂の前を通った隆冶は、通子に捕まった。
「監察官さん」
「何でしょう」
「三年目ですよ」
「何がです」
「何が、じゃないでしょうよ」
表で札を干していた通子は、腕を組んで見上げる。
「あんた、混雑の柵とか模造品の取り締まりとか、そういうのは一年前から十手先まで読めるくせに、自分のことになると急に歩幅が小さくなるね」
「店先で言う話ですか」
「店先だから言うの。逃げられないでしょ」
たまたま居合わせた虎哲が、荷を下ろしながら吹き出した。
「通子」
「だって本当じゃない。恵美子さんは前よりちゃんと自分で選ぶようになったし、あんたは前より余計に顔へ出るし」
隆冶は一度だけ眼鏡の位置を直した。
「顔へ出ているつもりはありません」
「出てるよ」
「出ている」
虎哲まで頷く。
二対一では不利だと悟ったのか、隆冶はため息とも苦笑ともつかぬ息をついた。
「……借りものの言葉で済ませたくないのです」
その一言だけで、通子の顔つきが変わった。
「まあ、それはそう」
「最初に町へ広まったあの一節は、そもそも誰かの都合で勝手に使われたものでした。私は、あれを軽い文句として受け取っていません」
虎哲が腕を組む。
「だから余計に難しいわけか」
「ええ。あの言葉が、今の私の気持ちに近いことも分かっている。けれど、近いからといってそのまま口にすれば、安易に聞こえる気がしてならない」
「でもさ」
通子は飾り紐を結ぶ手を止めた。
「恵美子さんが嫌がるのって、借りたことを隠すことだと思うよ。あんたが借りものだって分かったうえで、自分の言葉として言うなら、そこは別なんじゃない」
隆冶はすぐには答えなかった。
店の奥では恵美子が客と話している気配がする。紙が擦れる音、日依の静かな受け答え、その向こうで恵美子の声が、相手の言いよどみを急かさず待っている。
隆冶は、その声を聞きながら言った。
「まだ、もう一つ足りないのです」
「もう一つ?」
「私が見ているのは夢だけではない、と言える形にしなければ」
通子は一瞬きょとんとし、それから頬をゆるめた。
「それなら、あと少しじゃない」
「簡単に言いますね」
「難しくしてるのはそっち」
虎哲は荷を担ぎ直しながら、小さく肩をすくめた。
「祭りまでには決めろよ。台の位置は動かせても、そういうのは間に合わなくなると格好がつかん」
「大工に言われるのも不本意です」
「不本意でも聞いとけ」
そんなやり取りを、障子一枚隔てた向こうで、恵美子は聞いてしまっていた。
聞こうとして聞いたわけではない。たまたま客へ見本札を渡し、送って戻る途中、表の通りに開いた障子の向こうから声が流れ込んできたのだ。自分の名は出ていない。けれど、話の向かう先を分からぬほどではない。
足がその場で止まり、すぐに動けなくなった。
通子は時々、余計なほど鋭い。
虎哲はこういう時にだけ、妙に空気の芯を突く。
そして隆冶は、やはり言葉を値切らない。
借りものの言葉で済ませたくない。
夢だけではない、と言える形にしたい。
恵美子は障子の縁へそっと指を置いた。木の感触は乾いていて、少しだけ春の温みを持っている。二年前の自分なら、きっと怖くなっていた。期待してしまう自分がみじめに思えて、先に逃げ道を探したはずだ。けれど今は、怖さより先に、胸の奥が静かに熱を持つ。
あの人は、急がない。
分からないまま甘い言葉で押し切ることをしない。
だからこそ、ここまで来たのだと分かっている。
その夜、店を閉めたあと、恵美子は一人で作業部屋へ入った。
扉の内側には、もう見慣れすぎた紙がある。
――ノックはしないで。
最初にこれを書いた時、自分はただ、誰にも踏み込まれたくなかった。声をかけられるだけで、乱されると思っていた。期待されることも、労われることも、都合よく使われる前触れに見えていた。
けれど今、この戸の向こうでは、名を告げて入ってくる人たちがいる。
返事を待ってくれる人がいる。
急がず、値切らず、嘘をつかずに、自分の言葉を受け取りに来る人がいる。
恵美子は机の引き出しを開け、あの厚い白札を取り出した。隆冶が先に選んでいった紙だ。まだ文字は何もない。白いままなのに、不思議ともう、誰かの気配を含んでいるように見えた。
「夢だけではない、か……」
独り言が、静かな部屋へ落ちる。
思い返せば、自分も同じだった。
夢だけを見ていたのではない。隆冶の言葉に助けられた日、薄荷水を置かれた夜、眼鏡を外した横顔を近くで見た夕暮れ、混雑の中で誰より落ち着いた声で名を呼ばれた瞬間。そんなものが積もり積もって、眠る前だけではなく、朝の支度の最中も、昼の筆の合間も、ふとした沈黙のたびに思い浮かぶようになっていた。
この人がいる明日を、何度考えただろう。
部屋の外から、表の戸締まりを確かめる音がした。日依は先に帰した。通子も今日は早かった。虎哲は寺の仮設でまだ働いているはずだ。だから、その足音は一人分しかない。
「隆冶です」
扉の向こうから、静かな声がした。
恵美子は少しだけ息を止める。
「どうぞ」
戸が開く。隆冶は敷居をまたいですぐ、扉の紙へ目をやった。『ノックはしないで』の文字は、灯りの下で少しだけ黄ばんで見える。
「遅くに失礼します」
「祭り前ですもの。遅いのはお互いさまです」
「紙の件で」
彼は懐から小さく折った紙を出した。
「文ではありません。覚え書きです。まだまとまっていないので、見せるつもりはなかったのですが」
差し出された紙には、短い言葉がいくつも書いてあった。どれも途中で消され、書き直され、また消されている。
朝も
昼も
老いゆく先も
笑う顔
働く手
戸を閉める音
夢だけでは
足りない
恵美子は、そこから先を読めなかった。読んではいけない気がしたからでもあるし、胸が静かにいっぱいになって、文字を追う余裕がなくなったからでもある。
「まとまりませんね」
隆冶が苦く笑う。
「いつもの報告書なら、とっくに一枚にできるのですが」
「報告書ではないのでしょう」
「ええ」
「でしたら、まとまらない時間にも意味があるのでは」
自分で言いながら、少し照れくさい。けれど隆冶は目を伏せ、それから頷いた。
「そうであってほしいと思っています」
灯りの近くで見ると、彼の眼鏡には細かな埃がついていた。今日は寺の高い棚も見たのだろう。恵美子はいつものように、布を取ろうとしてから手を止める。勝手に世話を焼くには、今の沈黙はやわらかすぎた。
隆冶もその手の止まり方に気づいたらしく、少しだけ目を細めた。
「祭りが終わったら、改めて頼みに来ます」
「はい」
「その時は、名を書く段まで進めておきます」
言ってしまってから、彼はほんのわずかに困ったような顔になった。言いすぎたと思ったのかもしれない。だが、恵美子はそれを否定しなかった。
「お待ちしています」
そう返すと、隆冶は深くは息をつかず、ただ静かに一礼した。そして出ていく前に、扉の紙へもう一度目を向けた。
「その貼り紙は」
「ええ」
「長く勤めましたね」
「かなり」
二人とも、少しだけ笑う。
隆冶が去ったあと、店の中はまた静かになった。
けれどさっきまでの静けさとは違う。待つだけの静けさではなく、もうすぐ何かを受け取る側の静けさだった。
恵美子は扉の前へ立ち、古い紙の端へ指をかけた。
墨で書いた四文字は、最初のころの切羽詰まった勢いをまだ残している。紙の端はめくれ、貼り直した跡が何度も重なっていた。これがあったから守られた時間もある。ここで息を整え、自分の線を取り戻した日々も、確かにこの戸の内側にあった。
「もう、大丈夫」
誰に聞かせるでもなく言って、そっと引く。
乾いた音がして、紙は思ったよりあっさりとはがれた。戸板には、長く隠れていたぶんだけ少し白い四角が残る。そこへ夜の灯りが斜めに差し、まるで新しい札を貼る場所のように見えた。
恵美子は、はがした紙をきれいに折った。捨てはしない。だが、もう戻しもしない。
扉を少しだけ開けてみる。
表の間の灯りが細く流れ込み、文机の端を照らした。風はないのに、開いた隙間から外の気配だけが静かに入ってくる。
三年目の春が、もうそこまで来ていた。




