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婚約破棄された代筆令嬢は、満員の寺で恋の俳句を売る  作者: 乾為天女


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第14話 三年目の告白

 三年目の春の縁句祭は、朝からどこか空気が違っていた。


 月暁寺へ続く坂道には、まだ陽が柔らかいうちから人の列ができている。色糸を下げた屋台、焼き団子の香ばしい煙、旅人の草履が石を打つ乾いた音。夢折堂の軒先でも、通子が飾り紐を風に泳がせ、虎哲が仮設の台の高さを最後まで気にしていた。


 「今年は去年より左を広く取ったからね。あんたの字を待つ人が外へはみ出しても、転びにくい」

 虎哲が木槌を腰へ差しながら言う。


 「転びにくい、で済ませる言い方ではありません」

 帳場から日依が顔を上げた。すでに朝の帳面には依頼が三十件近く並んでいる。


 通子は札を吊るす紐をきゅっと結び、恵美子へ振り返った。

 「ほら。三年目の春だよ、店主さん」


 その言い方が、ただの時候の挨拶ではないと分かってしまう。恵美子は硯へ水を落としながら、あえて顔を上げなかった。


 「春は毎年参ります」

 「そういう逃げ方、今日はだめ」

 「通子」

 「だって本当でしょう。こっちは二年前から見てるんだから」


 日依は小さく笑い、客の名前札を並べ直した。

 「通子さん、恵美子さんの手元がぶれます」

 「ぶれても今日はいい字を書くって」


 言い返そうとした時、表から寺男の大きな声が飛んできた。

 「第一陣、入ります!」


 その一声で、店の中の空気が一斉に引き締まる。


 夢折堂は、もう仮の売り場ではなかった。寺門前の角、風の通る位置に構えた木の店。外には『ご用の方はお名前を』の札、内には季節の文見本、脇には祝い札と送り札、奥には代筆用の机。春だけの客ではなく、町の者が普段から出入りする場所になっている。けれど縁句祭の日だけは、二年前のあの混雑を思い出させるほど、町じゅうの足がここへ向いた。


 午前のうちは若い娘たちの依頼が続いた。名をまだ書けぬ相手へ渡す札、幼なじみへ気持ちを伝える札、喧嘩した恋人へ先に折れるための札。恵美子は一人ひとりの言いよどみを待ち、紙の厚みと筆の含みを選び分けながら五・七・五を置いていく。


 昼前には、子を送り出す母親が来た。恋ではないが、春の別れもまた願いの一つだった。午後には、去年ここで仲直りした夫婦が、今年は子の初節句の札を頼みにきた。恵美子が筆を置くたび、日依が静かな字で清書し、通子が紐を結び、虎哲が外の列を整える。


 誰か一人の背で持つ商いではない。そう思うたび、胸の内へ、ゆっくり温かいものが満ちていった。


 正午を過ぎるころ、隆冶が店先へ現れた。


 藍の羽織は人波の中でもすぐ分かる。眼鏡の奥の目は相変わらず忙しそうに人の流れを測っているのに、夢折堂の前へ来た時だけ、ほんのわずかに動きがやわらぐ。


 「東の石段、少し詰まりましたが、持ち直しました」

 開口一番、彼は報告した。


 「虎哲さんの台が効いています。書き終えた人を外へ逃がせているので」

 日依が帳場から応じる。


 隆冶は頷き、それから恵美子へ目を向けた。

 「こちらは」

 「筆はまだ持っております」

 「それは何よりです」


 他愛ないやり取りだった。けれど、その短さの中に、二年前にはなかった自然さがある。恵美子は紙を一枚差し出した。


 「薄荷水を置いてあります。今日は風が弱いので」

 「お気遣いなく、と言うには、今朝から三度目に助けられていますね」


 隆冶は受け取り、ひと口だけ口をつけた。その喉の動きを見ただけで、恵美子は自分が思っている以上に彼を見ているのだと知る。


 「紙は」

 恵美子が小さく尋ねると、隆冶の指先がわずかに止まった。


 「持っています」

 「名を書く段まで、進みましたか」

 「今夜には」


 それだけ言って、彼は店先から離れた。


 今夜には。


 その言葉が、祭りの喧騒の下でずっと静かに鳴り続けた。


 夕方が近づくと、月暁寺の境内には灯籠が吊られはじめた。まだ空は青いのに、紙を通した灯りが一つずつ色を持ち始める。川辺へ向かう道にも人が流れ、遠くで笛の音が混じった。


 夢折堂の前には、最後の列が残っていた。


 「これ、何の行列?」


 通りすがりの旅の娘が、二年前の恵美子と同じことを言った。通子がすぐに胸を張る。

 「恋の俳句と、言えなかったことを言うための列!」


 娘は目を丸くし、それから友人と顔を見合わせて並び直した。


 恵美子は筆を持ったまま、ふっと笑う。あの日、自分は何もかも失った顔で石段の下に立っていた。今は、同じ問いへ、胸を張って答える店がある。


 最後の客を送り出した時には、すっかり夜だった。


 満員の寺は、それでも少しずつ静かになっていく。遠くの石段ではまだ笑い声が跳ね、奉納所の前には灯りが揺れている。だが夢折堂の戸口に残る気配は、もう店じまいのものだった。


 「先に片づけておきます」

 日依が帳面を抱える。


 「飾りは外の分だけ残すよ。どうせ夜風で一回見たいし」

 通子が紐を指ではじいた。


 「俺は寺の台を引き上げる。戸締まりは頼んだ」

 虎哲が手を上げる。


 三人とも、妙に物分かりがよかった。


 恵美子は、その不自然な気遣いへ何も言わなかった。言えば、きっと通子がにやにやする。


 三人がそれぞれの用で離れたあと、店の前には春の夜気だけが残る。揺れる灯籠の明かりが、戸口と敷居を淡く照らしていた。


 そこへ、足音が一つ近づいてくる。


 「お疲れさまでした」


 隆冶だった。昼と同じ藍の羽織なのに、夜の灯りの下では色が少し深く見える。手には、あの白札があった。


 「監察官殿こそ」

 恵美子はそう返しながら、思ったほど声が震えていないことに気づく。


 「今年も、事故なく終えられそうです」

 「ええ。二年前とは大違いですね」

 「二年前は、見知らぬ女性に机の置き方を教わりました」

 「監察官殿は、見知らぬ女の言葉をすぐ採るので驚きました」


 隆冶は小さく笑った。

 「採るだけの価値があると思ったので」


 その言い方が、昔から変わらない。できたことを曖昧に褒めず、きちんと理由を添えて渡す。恵美子はその声を何度受け取って、ここまで歩いてきただろう。


 風が吹き、灯籠が揺れる。紙の擦れる音がした。隆冶は手の白札へ目を落とし、それから一歩だけ近くへ来た。


 「恵美子さん」

 「はい」


 「今夜、名を書く段まで進めると言いました」


 恵美子は黙って頷く。


 「借りものの札ではなく、私の言葉で申し上げます」


 その前置きだけで、胸の奥がきつく締まった。逃げたくはない。逃げないと決めたのは、自分のほうでもある。恵美子は指先を袖の内へ軽く握り込み、彼の次の言葉を待った。


 隆冶は白札を開かなかった。書かれた文字ではなく、自分の口から出すと決めている顔だった。


 「いつもあなたの夢を見ている」


 春の夜は賑やかなはずなのに、その一言だけが、ひどくまっすぐに耳へ届いた。


 隆冶は続ける。


 「最初は、あの一節を軽々しく使う気にはなれませんでした。誰かに盗まれ、値札をつけられた言葉でしたから。けれど二年見続けて、私の中でも意味が変わりました」


 眼鏡の奥の目が、まっすぐ恵美子を見る。


 「眠っている時の夢だけではありません。あなたが筆を持つ朝を見たい。客へ声を向ける昼を見たい。疲れて戸を閉める夜を見たい。老いて字が少し丸くなっても、その先を隣で見ていたい。そう思うようになりました」


 言葉は静かだった。大げさに熱を帯びてはいない。だからこそ、一つひとつがごまかしなく胸へ入ってくる。


 「私は、あなたが役に立つからそばに置きたいのではありません。あなたが恵美子さんだから、明日も、その先も、同じ戸口に立ちたい」


 恵美子の喉が熱くなる。


 二年前、婚約を失った朝、自分はもう誰の隣にも胸を張って立てないと思った。使われる手としてしか求められないのだと、半ば信じていた。けれどこの人は、手際も才も知ったうえで、その奥にいる自分へ向かって名を呼ぶ。


 俳句で返したくなかった。

 うまい言い回しに逃げれば、また昔の自分へ戻る気がした。


 だから恵美子は、胸の奥で揺れるものをそのまま拾い上げるように、ゆっくり口を開いた。


 「私も」


 それだけで、声が少しかすれる。


 「私も、あなたのいる明日を何度も考えました」


 隆冶の目が、ほんのわずかに見開かれる。


 「筆を持つ朝も、店を開ける昼も、閉める夜も、気づくとそこにあなたがいました。急かさず、値切らず、嘘をつかずに見てくれる人がいると知ってから、私は前よりずっと、自分の字で息ができるようになったのです」


 涙が出そうだったが、泣き崩れはしなかった。言い切りたいことが先にあった。


 「ですから――これからも、同じ戸口に立ってくださるなら、うれしいです」


 沈黙が落ちる。


 それは気まずいものではなく、ようやく着いた場所の静けさだった。


 隆冶はすぐに手を伸ばしたりしなかった。代わりに、いつものように一度息を整え、それから深く頭を下げた。


 「ありがとうございます」


 その律儀さがおかしくて、恵美子は笑ってしまう。笑いながら目頭が熱くなる。


 「そこは、ありがとうございます、なのですね」

 「他に適切な言葉が浮かびません」

 「監察官殿らしいです」

 「今後は、隆冶で」


 言われて、恵美子は少しだけためらい、それから頷いた。


 「……では、隆冶さん」


 名を口にした瞬間、二人のあいだの春の空気が、わずかにやわらかく変わった。


 遠くで寺の鐘がひとつ鳴る。縁句祭の終わりを告げる音だった。


 「店を」

 隆冶が戸口を振り返る。


 「閉めましょうか」


 「はい」


 二人は並んで夢折堂の中へ入った。灯りを一つ落とし、文机の上の紙を重ね、硯へ蓋をする。通子が残した飾り紐が、夜風でかすかに揺れた。作業部屋の扉には、もう『ノックはしないで』の紙はない。代わりに、開けておいても怖くない静けさがある。


 恵美子が表の戸へ手をかけると、反対側へ隆冶の手が添えられた。


 二人でゆっくり引く。


 木の戸がぴたりと合わさる音は、二年前に聞いたどんなざわめきよりも、確かな響きだった。


 外では、春の灯籠がまだ揺れている。

 満員の寺で始まった縁は、ようやく、借りものではない言葉にたどり着いた。


 そして明日の朝もまた、この戸は開く。

 恋だけで終わらない、働く場所と生きる場所の戸として。



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