第8話 めがね越しに見る人
翌朝、恵美子は自分の目の下にうっすら残った影を、鏡の前で見ないふりをした。
眠れなかったことを顔に出すのは癪だったし、何より今日は灯籠流しの後片づけが残っている。昨夜、川辺で使った卓や竹枠を引き上げ、濡れた布を干し、奉納札の残りを数え、流れ着いた灯芯を拾う。祭の余韻に浸る暇など、寺門前にはない。
井戸の水で手を冷やし、髪を結い直し、恵美子はいつもの小部屋へ向かった。戸には相変わらず、墨の太い字で『ノックはしないで』と貼ってある。昨日までは少しだけ頼もしく見えていたその貼り紙が、今朝は自分の頑固さを言い当てられているようで、妙に気まずい。
「おはようございます」
声と一緒に、細い指が戸の隙間から紙包みを差し入れてきた。日依である。
「おはようございます。これは?」
「梅の蜜漬けです。通子さんが、眠れなかった人の顔に見えるから食べさせろと」
「……あの人は、なぜそんなところだけ勘が鋭いのでしょう」
戸を開けると、日依は口元だけで笑った。
「鋭いのは、通子さんだけではないと思います」
「何のことでしょう」
「さあ」
そこで逃がしてくれるあたりが、日依らしい。恵美子は礼を言って包みを受け取り、ひと粒口に含んだ。甘酸っぱさが舌の上でほどけ、胸のあたりに貼りついた寝不足まで少しだけ剥がれる。
外へ出ると、夏へ向かい始めた朝の日差しが、石畳の水気をきらつかせていた。昨夜の賑わいはもうなく、代わりに片づけの音が境内に広がっている。竹を束ねる音。縄を引く音。濡れた板を立てかける鈍い音。祭の翌朝は、華やかな灯りが去ったぶんだけ、働く人の手つきがよく見えた。
通子はすでに裾をたくし上げ、飾り紐を色ごとに分けている。
「遅い。ほら、これ見て」
そう言って彼女が掲げたのは、昨夜の売れ残りの見本札だった。五色の飾り紐が、川の湿気を吸って少しだけしんなりしている。
「濡れたぶん、朝の光で色が柔らかく見えるの。秋の市にこのやり方使えそう」
「売れ残りを見て、まず次の工夫が浮かぶのですね」
「そりゃそうでしょ。商いってそういうものでしょ」
けろりと言われ、恵美子は少しだけ笑った。三年前までの自分なら、売れ残りを見た時点で先に謝っていた気がする。けれど今は、失敗や余りを次に繋げる目を、身近なところでいくつも見ている。
「虎哲さんは?」
「川のほう。板を外してる。隆冶さまも一緒」
その名を聞いた途端、恵美子は梅の種を喉に落としそうになった。通子がにやりとする。
「なんで今、飲み込み方を失敗するの」
「しておりません」
「してた」
日依が静かに視線を逸らした。笑いを堪えているのが分かる。
「……川のほうへ行ってまいります」
「はいはい。仕事ですものね」
その一言に余計な色がついているのを感じつつ、恵美子は川辺へ向かった。
昨夜、灯籠を流した場所は、昼の顔になるとずいぶん現実的だった。川面は白く光り、流れ着いた竹片が岸辺に寄っている。仮設の柵を外す者、灯芯の灰を集める者、濡れた縄を日に広げる者。虎哲が川へ半身を乗り出し、杭に結んだ綱をほどいていた。
「おう、恵美子さん。ちょうどいい」
振り向いた虎哲が顎で示した先、隆冶が橋板の状態を確かめていた。昨夜の騒ぎで一枚ひびの入った板があり、今朝のうちに取り換える予定らしい。藍の羽織は脱いで、白い単衣の袖を軽くまくっている。眼鏡の奥の目はいつも通り落ち着いているのに、その格好だけで少し違って見えた。
「この板、帳面つけておいてくれない?」と虎哲が言う。
「長さと傷み具合をですか」
「そう。おれ、数字になると急に大雑把になるから」
それはよく分かる。恵美子が帳面を受け取ろうとした、その時だった。
「虎哲、そちらの縄は一度外して――」
隆冶が言いかけたところへ、川風に煽られた乾きかけの布がふわりと飛んだ。誰かが干していた大きな幕である。布の端を押さえていた竹竿が外れ、勢いよく横へ振れた。
「危ない!」
虎哲の声とほぼ同時に、竹竿の先が隆冶の顔の横を掠めた。
鈍い音はしなかった。ただ、銀縁の眼鏡がはじかれ、石の縁へ当たって小さく跳ねる。恵美子は反射で走っていた。
拾い上げた眼鏡の片側は、蔓の根元がわずかに曲がり、左の鼻当てが取れかけていた。硝子も薄く欠けている。
「申し訳ない!」
幕を追ってきた若い寺男が顔を青くする。
隆冶は眉間を押さえたまま、短く息を吐いた。
「怪我はありません。まず布を押さえてください。風上を二人で」
自分の眼鏡より先に現場を立て直すあたりが、いかにも彼らしい。だが声はいつもより半拍だけ遅れていた。焦点の定まらない目つきで布のほうを向いたあと、彼は一歩踏み出し、石の段差をわずかに踏み外しかけた。
「隆冶さま」
恵美子が腕を取ると、彼はすぐに体勢を戻した。
「すみません。見えているつもりでいました」
「見えていません」
思ったよりきっぱり言ってしまい、恵美子は自分で少し驚いた。けれど隆冶は気を悪くした様子を見せない。むしろ事実として受け取った顔をした。
「どのくらい壊れておりますか」
「左が曲がっています。鼻当ても外れかけています。今のままでは、掛けないほうがよろしいです」
「そうですか」
落ち着いた返事だったが、その短い三文字に、ほんの少しだけ困りが滲んだ。
隆冶は目を細め、恵美子の手の中の眼鏡を見ようとした。だが焦点が合わないのだろう。普段なら帳面の細かな字まで逃さない人が、数歩先の銀縁にさえ手を伸ばしかねている。
「予備はございませんか」
「役所に一つありますが、ここから戻るまでに半刻以上かかります」
虎哲が頭を掻く。
「それまでこっちの片づけ止めるか?」
「止めるほどではありません。指示は出せます」
「出せても、見えてねえじゃん」
虎哲の遠慮のなさに、寺男がひっと息を呑む。だが隆冶は怒らなかった。黙って一度、まぶたを伏せる。
「……ええ。細かな確認は難しいですね」
認める声が、思いのほか静かだった。
恵美子は壊れた眼鏡を見下ろした。蔓の曲がりなら、応急手当くらいはできるかもしれない。父が生きていた頃、帳面留めの金具や文机の蝶番が緩めば、母は針金と蝋で一時的に直していた。美しくはないが、半日もてば十分、という直し方だ。
「小部屋へ来てください」
隆冶が顔を上げる。
「何を」
「応急手当です。完璧には戻りませんが、今日一日は使える形にできるかもしれません」
「恵美子さんが?」
「紙ばかり触っているように見えるかもしれませんが、細かな修繕も少しはできます」
虎哲が感心したように口笛を吹きかけ、日依の目を気にして飲み込んだ。
「じゃあ頼んだ。こっちはおれが見とく」
「見ておいてください。勝手に板を減らさないで」
「減らすかよ」
やり取りを終えると、恵美子は隆冶へ向き直った。
「歩けますか」
「それは、先日お返しした言葉ですね」
かすかに笑う気配があった。そんなことを言えるなら大丈夫だろう、と安心しかけたが、次の一歩で彼はやはり歩幅を測り損ねた。恵美子は今度は躊躇せず、腕を貸した。
眼鏡のない隆冶は、思っていたよりずっと人に触れられることへ無防備だった。いつもなら先に気配で避ける人が、半歩遅れてこちらの支えに身を預ける。そのわずかな違いだけで、恵美子の心拍は妙に忙しくなる。
小部屋の前へ着くと、恵美子は戸の貼り紙を見上げた。
『ノックはしないで』
その前に、自分で戸を開ける。なんだか今朝だけで二度も、この紙に試されている気がした。
「どうぞ」
「貼り紙に背くのは初めてです」
「今はわたしが招き入れています」
「それなら従います」
そんな言い方をされると、ただ戸を開けただけなのに妙に意味深く聞こえる。恵美子は返事をせず、机の上を片づけた。
窓辺の明るい場所へ椅子を寄せ、布、小鉗子、細い針金、帳面留めに使う蝋糸を並べる。隆冶は椅子へ腰かけたが、いつものように周囲を見回すことができないせいか、どこか手持ち無沙汰な顔をしていた。
それが、少し新鮮だった。
「失礼します」
恵美子は彼の手から眼鏡を受け取り、まず硝子の欠け具合を確かめた。左端が米粒ほど欠けているだけなら、ひとまず掛けられる。問題は曲がった蔓と外れかけた鼻当てだ。
「鼻当てを一度外します。少しお時間をいただきます」
「お願いします」
隆冶は素直に言った。
その素直さが、眼鏡がないせいだけではない気がして、恵美子は手元へ意識を戻した。銀の細い枠は思った以上に繊細で、力を入れすぎればすぐ歪む。息を詰め、針の先でわずかに持ち上げ、緩んだ部分へ蝋糸を渡す。曲がった蔓は布越しにゆっくり戻す。
「……近いですね」
不意に隆冶が言った。
恵美子の指が止まりそうになる。
「直すには、近づかねばなりません」
「そうですね」
そうですね、ではない。
近いと先に口にしたのはあなたでしょう、と言いたかったが、言ってしまえばこちらが意識していると白状するようで、結局黙るしかない。
眼鏡のない彼の目は、いつもよりずっと直接こちらを向いていた。焦点は少し甘いのに、眼差しだけはまっすぐだ。銀縁で切り取られていた時より、年齢も、疲れも、静かな癖までも、隠れずに見える。完璧に整っている人だと思っていた輪郭に、急に人肌の温度が宿ったようだった。
「痛みますか」
「いいえ」
「見えにくいと、疲れるでしょう」
「疲れます。文字が霞むのが、いちばん厄介です」
彼は少し間を置いて続けた。
「普段、自分がどれほど眼鏡に頼っているか、壊れるたびに思い知らされます」
「壊れるたびに、ということは前にも」
「若い頃、急いで階段を下りて自分で踏みました」
思わず恵美子は顔を上げた。
「ご自分で?」
「報告が遅れると思って」
「それは……大変ですけれど、少しだけ」
「少しだけ?」
「想像すると、おかしくて」
隆冶の口元がわずかに緩んだ。
「笑ってください。今となっては私もそう思います」
その笑みを見た瞬間、恵美子は胸の奥にまた別の揺れを覚えた。眼鏡越しの理知的な顔ではなく、眼鏡を外した人の顔としての隆冶が、そこにいた。
壊れた枠を直しながら、恵美子はそっと尋ねる。
「見えにくくなるのが、お嫌いなのですね」
「ええ」
「不便だからですか」
「それもあります」
隆冶は膝の上に置いた手を組んだ。
「ただ、不便そのものより、何ができなくなるかを数えてしまうのです。帳面が読めない。印が見えない。人の顔色を取り違える。そうすると、私がそこにいる理由が急に薄くなる気がする」
恵美子は顔を上げないまま、言葉の続きを待った。
「役所へ入ったばかりの頃、私は身分も後ろ盾も薄くて、出来ることを増やすしかありませんでした。字を間違えない、数字を落とさない、遅れない、揉め事を大きくしない。そうしているうちは、席がありました」
淡々とした声だった。自分の傷を売り物にしない話し方だ。
「ですが、一度熱で倒れたことがあるのです。十日ほど寝込みまして。その間に、私がいなくても役所は回るとよく分かりました」
窓の外で、竹を束ねる音がした。夏に近い風がひと筋、部屋へ入る。
「それは、当たり前のことです」と恵美子は言った。
「ええ。頭ではそう分かっています」
「では、なぜ」
「分かっていても、人は時々、当たり前のことに一番傷つくからです」
その返答は静かすぎて、嘆きにも愚痴にも聞こえなかった。だからこそ、本心なのだと分かった。
恵美子は、外しかけた鼻当てを元へ戻した。指先が少し震えたのは、細かな作業のせいだけではない。
「……少し、分かります」
言ってから、彼がこちらを見る気配がした。
「わたしも以前は、役に立つ時だけ席があるような気がしていました」
徳博の店の名を出すつもりはなかった。だが三年分の夜が、喉の手前で静かに並ぶ。
「書いて、整えて、気を回して、そのぶんだけ必要とされていると思っていました。けれど、必要だったのはわたしではなく、わたしの手だけだったのだと、ある朝いきなり突きつけられました」
蝋糸を結び、余りを小さく切る。
「だから、今でも時々考えます。誰かがわたしに親切なのは、わたしが役に立つからではないかと」
その先までは言わなかった。
あなたもそうなのではないか、と。
それを口にするのは、まだ臆病すぎるし、失礼すぎる。
けれど隆冶は、言われなかった言葉まで受け取ったようだった。
「私は、あなたが役に立つから評価しています」
恵美子の胸がひやりとする。
けれど彼は、そこで終わらせなかった。
「同時に、役に立つかどうかと別のところで、あなたを見ています」
部屋の空気が止まったように思えた。
恵美子は手元の眼鏡を落としそうになり、あわてて持ち直す。
「……別のところ、とは」
「朝、人より先に戸を開けるところ。相手が困っていると、声の端だけで気づくところ。怖いのに、必要なら前へ出るところ」
彼は少し考えてから、言葉を足した。
「そういうものは、帳面の数字にはなりません」
恵美子は息をするのを忘れた。
褒められたことがないわけではない。店でも、家でも、器用だ、助かる、まじめだとは言われてきた。けれど今、彼が並べたのは成果の名前ではなく、恵美子そのものの癖や、躊躇いながら前へ出る瞬間の話だった。
そんなところまで見られていたのだと思うと、嬉しいより先に、心が追いつかない。
「……見すぎです」
やっと出た言葉がそれだった。
隆冶は少しだけ首を傾げる。
「監察の仕事柄、つい」
「仕事にしないでください」
「善処します」
冗談とも本気ともつかぬ返事に、恵美子はとうとう笑ってしまった。笑った拍子に、さっきまで張りつめていた糸が少し緩む。
「できました。たぶん、半日ほどは持ちます。夕方までに硝子師へ」
眼鏡を差し出すと、隆冶は受け取って慎重に掛けた。最初は位置を探るように指先で蔓を確かめ、次にゆっくり瞬きをする。
焦点が戻った瞬間、彼の目がはっきり恵美子を捉えた。
「よく見えます」
その一言だけで、なぜこんなに胸が熱くなるのだろう。
「それは、眼鏡が直ったからです」
「それもあります」
また、まず、だの、それも、だの、言葉の端に余白を残す。
恵美子が顔を背けると、隆冶は机の上の小さな道具類へ視線を落とした。
「意外でした」
「何がですか」
「あなたが、こういう直し方を知っていること」
「家が傾くと、いろいろ覚えます」
「……そうですね」
その相槌には、分かると言い切らない分だけ、かえって誠実さがあった。
「恵美子さん」
「はい」
「先ほどの話ですが」
彼は眼鏡の位置を指で軽く直した。
「私は、成果でしか人と繋がれないと思い込む癖があります。ですから、言葉を選ぶのに時間がかかる」
「はい」
「もし今後、評価と、それ以外の気持ちを取り違えるような言い方をしたら、遠慮なく訂正してください」
その願い方が、いかにも隆冶らしかった。
好意を告げるのでもなく、曖昧に濁すのでもなく、まず誤りの訂正を頼む。真面目すぎて可笑しいのに、胸のどこかがきゅっとなる。
「では、わたしもお願いがあります」
「何でしょう」
「見えにくい時は、見えているふりをしないでください」
隆冶が瞬いた。
「危なかったですし、こちらも困ります」
「……分かりました」
「あと、困っている時は、少しは周りを頼ってください」
「努力します」
先ほどの善処しますとよく似た返事だった。
二人で顔を見合わせ、同時に少しだけ笑う。
その瞬間、戸の外から勢いよく声が飛んできた。
「たっだいまー! って、あ、いる!」
通子である。しかも戸を開けかけたところで、貼り紙を見て、ぎりぎり手を止めたらしい。
「今、あたし、偉くない?」
「偉いです。止まってください」
恵美子が即答すると、戸の向こうで通子がけたけた笑う。
「虎哲がさ、あの監察官さま、眼鏡どうなったって気にしてる。あと若い寺男が青い顔して三回謝ってる。ついでに日依が、部屋の空気を読んで戻るべきか悩んでる」
部屋の空気、という言葉に、恵美子は急に頬が熱くなった。
「今、開けます」
戸を開けると、通子は隆冶の顔を見て、にやにやと笑う。
「お、直ってる。恵美子、すご」
「応急手当です」
「それでもすごい。で?」
「何がですか」
「何でもない」
何でもない顔で言う人ほど信用ならない。
通子はわざとらしく小声になった。
「眼鏡ないと、ちょっと雰囲気変わるねえ」
その一言で、今度は隆冶まで咳払いをした。珍しい反応だった。通子はますます面白がる。
「へえ。そういう顔もするんだ」
「通子さん」と日依が後ろからたしなめる。
「はいはい。仕事の話します」
結局、空気をいちばん読まない人が、いちばん場を進める。通子の報告によれば、川辺の片づけはおおむね順調で、午後からは寺門前の売り場を開けられそうだった。昨夜、灯籠を見た客が朝のうちから札を求めて戻ってきているらしい。
隆冶は立ち上がり、いつもの調子で袖を整えた。
「それでは現場へ戻ります。応急手当の代金は、後ほど」
「いりません」
「それは困ります」
即座に返ってきて、恵美子は少しだけ目を見開く。
「以前も申し上げましたが、対価を払わぬ親切は、時に相手の仕事を軽く扱います」
「……覚えておられたのですね」
「言った本人が忘れては困るでしょう」
その通りだった。恵美子は小さく息をつく。
「では、硝子師へ行くまで持ったら、その時に一杯だけ、お茶を奢ってください」
言ってから、ずいぶん妙な頼み方をしたと思った。修繕代としては安すぎるし、まるで約束を取りつけたみたいだ。
だが隆冶は、少し目を丸くしたあと、静かに頷いた。
「分かりました。一杯、確かに」
その答え方があまりに丁寧で、通子が横で唇を噛んで笑いを堪えているのが見えた。あとで何を言われるか、考えたくもない。
隆冶は戸口で一度振り返る。
「……恵美子さん」
「はい」
「先ほどは、助かりました」
その言い方は、寺門前で初めて言われた時と同じだった。恩着せがましさがなくて、それでいて曖昧でもない。必要な分だけまっすぐな礼。
けれど今日は、そのまっすぐさが昨日までと少し違って胸へ届く。
「こちらこそ」
恵美子は言った。
「見えにくい時に、頼ってくださってありがとうございました」
隆冶はほんの一瞬、言葉を失ったように見えた。それから眼鏡の奥で、柔らかい笑みを作る。
「覚えておきます」
彼が去ったあともしばらく、部屋の中にはさっきまでの気配が薄く残っていた。
銀の枠に触れた指先。
近すぎる距離で聞いた声。
成果と別のところで見ている、と言われた時の呼吸の止まり方。
通子がにやにやしながら肘で小突く。
「ね。ずるいでしょ」
「……今日は少しだけ、認めます」
「少しだけ?」
「少しだけです」
日依が、静かに笑った。
「でも、よかったです」
「何が?」と通子。
「お二人とも、見えないままのふりをしなくて」
通子が一瞬きょとんとして、それから声を上げて笑う。
「日依、たまにすごいこと言うよね」
恵美子は返事ができなかった。
見えないままのふり。
それは壊れた眼鏡のことだけではないのだろう。
窓の外では、片づけの終わった川辺を夏の風が渡っていた。昨日の灯りはもうない。それでも、流れたはずの熱がどこかに残っていて、胸の奥をまだゆっくり照らしている。
眼鏡越しに見る人だと思っていた。
けれど今日、恵美子が見たのは、眼鏡がなくても言葉を選び、弱さを隠しきれず、それでも立っている一人の人だった。
完璧ではないからこそ、近づくのが怖い。
それでも、完璧ではないと知ったからこそ、もっと知りたいと思ってしまう。
そんな厄介な気持ちを抱えたまま、恵美子は机の上の小さな道具を片づけた。
蝋糸の切れ端を拾い、布を畳み、使った針を箱へ戻す。
指先にはまだ、銀の冷たさが残っていた。
あれが消える頃には、たぶんまた寺門前の忙しさに追われるだろう。
けれど今朝、たしかに一つだけ分かった。
見えるものが増えるたび、人は少しずつ、前の自分へは戻れなくなる。
そのことを、恵美子は誰にも言わず、胸の内側へ静かにしまい込んだ。




